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メキシコ五輪3位決定戦

 1968年の第19回オリンピック・メキシコ大会は、私たちの第18回オリンピック東京大会の次の回、4年後だった。

 高度2240メートルのメキシコシティでの開催は、低地よりも気圧が低く、酸素が少ないところから競技者への影響が気づかわれた“高地オリンピック”でもあったが、私たちには日本代表イレブンが銅メダルを獲得したうれしい大会だった。五輪サッカーでアジア・チームのメダルは例がなく、またストライカー釜本邦茂(現松下監督)が大会の得点王ともなって、欧州・南米のマスコミに“日本とアジアが第3勢力となるか―――”と注目されたものだった。

 その3位決定戦の相手がメキシコ。

 彼らにとっても初メダルのチャンスだったのだが…。

 オリンピック開催から2年後、1970年ワールドカップ・メキシコ大会は、29歳と円熟のペレを擁するブラジルが優勝し、第1回大会からワールドカップの象徴となっていた純金の「ジュール・リメ・トロフィー」を永久保持することになった。1958年(スウェーデン)、1962年(チリ)の両大会に続く三度目のチャンピオンに与えられる栄誉だった。

 開催国メキシコは、1次リーグを2勝1分で準々決勝へ進んだが、イタリアに1−4で敗れた。70年ワールドカップ開催が決まったのは東京オリンピックのときに開かれたFIFA総会。アルゼンチンとの決戦投票で大会の招致が決定した瞬間のメキシコ関係者の喜びよう―――協会役員だけでなく、カメラマンやレポーターたちが抱き合う姿を、そのころの日本のメディア関係者が、不思議そうに見つめていた光景をいまも覚えている。

 1986年のワールドカップ開催は、コロンビアの肩代わり、いわばピンチヒッターだった。

 欧州と南米で交互に開くという不文律から、74年の西ドイツ大会のときの総会で(78年アルゼンチンはすでに決まっていた)、86年はコロンビアが早々と名乗りを上げていた。だが、82年スペイン大会からそれまでの16チームを24チームに拡大し、大会規模が一気に大きくなったのと、経済悪化などもあってコロンビアでは開催できなくなった。

 代わって開催を希望したアメリカ、カナダ、メキシコの中から、FIFAはメキシコを選んだ。決定したのが1983年5月、大会開催までに3年(普通は6年)の期間しかなかった。さらに、大会前年の9月にはマグニチュード8.1の大地震があって大きな被害を受けたが、大会は見事に運営され、24チームの拡大大会は2回目で“大成功”を収めた。


(サッカーダイジェスト1991年11月号「蹴球その国・人・歩」)

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