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フットボールとトラチトリ

 メキシコにサッカーが入ったのは、19世紀の末、英国人やスペイン人、あるいはフランス人が持ち込んだのだが、「イエズス会」、「聖母マリアの会(マリスト)」などのキリスト教団体が、その学校で子弟に教えたという記録もある。それがメキシコシティとその周辺のオリサバ、トルーカ、パチューカ、あるいは第二の都市グアダラハラ、カリブ海のベラクルスなどでクラブが生まれ、急速に広まってゆくのだが、もともとメキシコにもフットボールに似たボール・ゲームがあった。

 紀元600年頃のマヤ遺跡などで発見されたコート跡から明らかになったこのボール・ゲームは、「トラチトリ」と呼ばれ、4人が1チームになって長さ28メートルばかりのコートで、直径10センチ〜12センチの硬いゴムのボールを扱う。ボールを扱っていい部分は、身体の腰、尻、ヒザ、ヒジ、モモに限られ、(1)相手方の選手のこれ以外の部位にボールをぶつける。(2)相手側の後方のカベにボールをぶつけるか、カベを越すかすれば得点になり、また(1)中央コート側のカベの外へボールを出す。(2)カベに設けられた石環の近くで待ち受けると失点になった。

 面白いのは、一方の側壁から突き出された石の環にボールを通り抜けさせれば、それまでの点数に関係なくゲームセットとなること。重くて小さなボールを腰やモモやヒザ、ヒジに当てて石の環を通すことは難しいため、成功した選手は英雄となったという。

 このコート内のボール・ゲームは宗教行事であったとみられているが、ボールを扱うのに手を使わないこと(足も使わないが)、ボールが環を通ればすべてに勝ること、などがフットボールの考え方に似ていて面白い。ゴムを固めたボールは重くて硬いため、ヒジや腰には防衣をつけていたらしい。

 メキシコの古い文化、メキシコ湾岸のオルメカや中央高原のティオティワカン、あるいはユカタン半島のマヤなど、それぞれの時代や地域に特色があるが、紀元1300年頃、いまのメキシコシティのある中央高原に覇権を握ったのが、アステカ族。彼らが泉の湧く(メヒコ)地に都を建てた。湖の上に農耕地を作り、ステココ湖上の島に宮殿と都市を設けた「ティノチティトラン」を、スペイン人エルナン・コルデスの一隊が滅ぼすストーリーはまことに痛ましいが、こうした欧州文明、キリスト文化が入る以前にフットボールに似た競技があったのが、私たちサッカー人にとって興味を引く。

 トラチトリは足を使わない(モモ、ヒザは別として)が、メキシコの北部、いまのアメリカ合衆国に近い地域ではボールを足で蹴るゲーム(スペイン語でフェゴ・デ・ペロータ)の一種があったという。それは山野をボールを蹴って走る、ドリブル競争のようなものだったのか……。

 1521年にスペインがこの土地を征服してから300年、1821年に独立戦争で勝って、メキシコという新しい国が生まれた。1857年にはベント・ファレスのもとにレフォルマ(改革)の第一歩を踏み出しながら、外国の干渉でつぶれ、20世紀に入っても独裁政権に対する革命を繰り返したが、1917年に当時の世界で最も進歩的な新憲法を採択し、紆余曲折を経て民主国家を創った。スペイン系をはじめとする白人と、90パーセントのメスティーソ(インディオとの混血)、少数のインディオといった人種構成で、スペイン語を国語とするこの地でサッカーが急速に広まったのは、住民の大半に古い時代のフェゴ・デ・ペロータの記憶が残っていたからともいえる。

(サッカーダイジェスト1991年11月号「蹴球その国・人・歩」)

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