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1986年メキシコW杯「86ワールドカップ日本開催論」

 1970年のワールドカップ開催のため、メキシコは5会場を整備した。

 ▼ハリスコ(グアダラハラ/6万7498人収容)▼レオン(レオン/3万人収容)▼デポルティボ・トルーカ(トルーカ/3万人収容)▼クアウテモック(プエブラ/3万1689人収容)▼アステカ(メキシコシティ/10万5779人収容)

 16チームがこれらの会場で合計32試合を行なったが、総入場者数は167万3975人(有料)。入場料収入は8067万ペセタ(645万ドル)で、当時の円に換算すると23億2300万円だった。ちなみに、64年の東京オリンピックは18億円だった。

 この成功を見た日本サッカー協会の野津謙会長(故人)は、スタンレー・ラウスFIFA会長(故人)に、86年のワールドカップ日本開催の意向を伝えた。野津会長は70年8月1日、記者会見で、

 「日本でワールドカップを開催したい。そのためには、まずこの大会がどのようなものか。一つのスポーツの単なる国際競技会と考えるとまったく違う。元首から一般の国民すべて、国を挙げて行なう祭典だということを、日本の皆さんに知ってもらわなければならない」と、語っている。

 サッカーがまだ浸透していないのだから、そうした世界のスポーツの話を知識として吹き込むことはできても、多くの人の実感にはならない。そのために、野津会長は日本サッカーの体制を変え、組織を作り直すことに努力したい、とも語った。すでに他界された同会長の意思は、たとえ歩みは遅くても日本サッカー協会の努力で進んでいる。しかし2002年、サッカーが日本に住むすべての人に知られるスポーツ、日本で最も人気のある競技になっているかどうか…。

 その国民的な人気という点が、86年ワールドカップ開催地の選考にあたり、FIFAがカナダ、アメリカ合衆国ではなくメキシコに再び開催権を与えた要因だろう。

 NASL(北米サッカーリーグ)が70年代に話題を集め、サッカー人気をペレやベッケンバウアーの投入で盛り上げ、ワールドカップ開催によって一層の普及を図ろうとしたアメリカ合衆国。同国はコロンビアが開催を返上すると、元国務長官のキッシンジャー氏を推し立て、ワールドカップ誘致のキャンペーンを展開した。しかしFIFAは、70年大会の実績を持ち、スタジアムの整備などにも経験のあるメキシコを指名した。

 人口の急増で、ほぼ前回の倍近い8000万人となり、著しく近代化が進むメキシコだが、サッカーを改めて説明する必要はない。地球上で手を使わず、足だけでボールを扱うスポーツについて、なぜ手を使わないのか、あるいは足だけで面白いかなどという議論が出るのは、アメリカ合衆国と日本と、その他ごくわずかな国。サッカーが古い時代から、メジャーになっていない国だけだ。

 メキシコは多くの国がそうであるように、サッカーを良く知っている。その理解の上に、70年の経験が生きると判断したのだった。

 FIFA副会長がメキシコ人のカネド氏だったことから、

 「テレビの放映権などで密約があった」

 との見方をするメディアもあったが、結果論ではメキシコで良かった…と言える。

 メキシコが二度目の大会に用意した会場は、9都市12会場。ここで24チームが52試合を行なった。総入場者は244万人、入場料収入は53億円となり、テレビ放映権料、広告看板、プログラム広告料などを含めると、総収入は154億円にも達した。これから経費を差し引いた73億円が利益。そのうち30パーセントを、大会組織委員会が受け取った。

 経済面だけでなく、決勝のテレビ中継は160か国に放映され、5億人がアルゼンチンのマラドーナと西ドイツのルムメニゲの接戦を見た。82年のスペイン大会では若さを露呈したマラドーナが、成長して世界の第一人者、スーパースターとなった。アステカは、世界の新しい顔を送り出したのだった。

 もちろん、メキシコ代表の試合も大会の推進力だった。ウーゴ・サンチェスやキラルテの攻撃で1次リーグを突破したメキシコは、決勝トーナメント1回戦でブルガリアと対戦した。34分、ネグレテのシザースボレーでリードすると、61分には右CKからセルビンがヘディングシュートを決めて2−0。その後、ブルガリアの猛攻をDF陣の粘りと、日系人のGKラリオス・イワサキの果敢なセーブで凌いだ。試合終了直後、沸き上がったメキシコ国歌の大合唱は、国民の気持ちが一つになったことを証明していた。

 大会の前年、大地震に見舞われ、また86年に入って石油価格が暴落。経済的に苦境に立ったメキシコだが、二度目のワールドカップ開催も、そつなくこなしたのである。


(サッカーダイジェスト1991年11月「蹴球その国・人・歩」)

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