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1986年メキシコW杯「サッカーの楽しさを世界に知らせた」

 70年のメキシコ大会は円熟期のペレとトスタン、ジェルソン、カルロス・アルベルトや若いリベリーノ、ジャイルジーニョたちが活躍し、華やかで人を酔わせるチームが優勝した。66年イングランド大会の“壮大”とは異なった、“エキサイティング”で、楽しさにあふれた大会となった。

 優勝したペレも、イタリアとの延長の死闘で肩を脱臼したベッケンバウアーも、メキシコの人たちの温かさ、明るさのおかげでとてもいい雰囲気の大会だったと言っている。

 86年大会は絶頂期のマラドーナが率いるアルゼンチンの優勝で締めくくられたが、ペレ、ベッケンバウアー、クライフら、いわゆるスーパースターの系譜に入るべき実力者の登場に、世界は喝采を贈ったのだった。

 このマラドーナを中心に、攻撃は彼の瞬間の判断にまかせ、南米では珍しく相手2トップに対してマン・ツー・マンとリベロの3バック、両サイドDFの前進による5人のMF、そして2トップを基本形にしたカルロス・ビラルドのやり方は、世界中に流行した。

 アルゼンチンだけでなく、他のチームも充実していた。西ドイツはルムメニゲやブリーゲルの“最後の舞台”だったし、ブラジルには彼らの誇るジーコ、ソクラテス、ジュニオールが、フランスにはプラティニ、ジレス、ティガナの三銃士がいた。ベルギーもデンマークもソ連も、そしてイングランド、スペインなども好プレーヤーを揃えていた。

 そして、各チームが試合の終わったあとで口にした言葉は「メキシコの人たちのホスピタリティーに感謝する」だった。

 プエブラで試合をしたベルギー代表の何人かが街でストリート・チルドレンを見た。“家のない子供たちが、街の中で、子供たちだけで生活している”

 経済の苦境から失業が増え、家族と住めなくなった子供たちが、街でグループを作って生活するケースが中南米で増えてきている。

 心を痛めたベルギー代表選手は、帰国後、友人や協会に訴えて寄付を集め、プエブラに少年の家を建てた。「メキシコ人の親切に報いるために、なにかできることはないかと考えた」というのが動機だった。

 大会中のメキシコシティは、メキシコ代表が勝った日には大通りに若者が飛び出して踊り、交通渋滞も起きた。アステカ・スタジアムでの代表チームへの声援、

「アリバ、アリバ、アリバ、メヒコ

メヒコ、メヒコ、ラ、ラ、ラ

メヒコ、メヒコ、ビン、ボン、バン」

の合唱はテレビでも世界に伝わった。

 サッカーというゲームと、その周辺の楽しさを地球上へ送ったという点でも、86年メキシコ・ワールドカップは歴代の大会のなかでも強調されてよい。


(サッカーダイジェスト1991年12月「蹴球その国・人・歩」)

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