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ジーグブルグとテヘラン


 テヘランでのアジア大会、その一次リーグのイスラエル対日本の放送をNHKで見た。3-0の完敗だった。
 日本の守備線をドリブルで突破してくるイスラエルに対し、マイボールのときに、まるでドリブルできず、パスで繋ぐことだけに終始して相手に取られる日本、たまたま、オープン・スペースでボールを受けても、その後のドリブルの下手なためにボールを奪われる日本──そんなテレビの場面は、7月1日西ドイツの田舎町での薄ら寒いゲームを思い出させるのだった。


ジーグブルグの薄ら寒い日

 ワールドカップを見て勉強し、合わせて、西ドイツでトレーニングをしながらアマチュア・チームとゲームをする。そしてルーマニアで3〜4試合を行うというのが、今年夏の日本代表候補チームのヨーロッパ行きの目的だった。その西ドイツでの第一戦を、ケルソンから30キロばかり南にあるジーグブルグという田舎町ですることになった。日本のサッカー人には、ここのすぐ近く(3キロほど)にあるヘネフのスポーツシューレが有名だが、ジーグブルグの方が人口も少し多く、町も大きいようだ。そして、高い教会の屋根と落ち着いた家並み、ゴミの落ちていない通り、と静かな典型的な西ドイツの田舎町だった。

 ゲームは地元のジーグブルガー・クラブのグラウンドで、地域アマ・リーグの一部に属している同クラブ・チームとの間に行われた。グラウンドは、新しいのをこれから作るとかで、芝生ではなく、ボールがカツカツと音を立てて跳ねる固いアンツーカー。スタンドはなく、周囲に町の人達が立ったまま観戦。ゴールの後ろの土手には、子供達が腰を下ろして声援と、全く草サッカーの感じだった。それでも、確か2マルクかの入場料を取っていた。

 試合前から小雨が降り、7月というのにイヤになるほど冷え込んでくる。日本のナショナル・チームのプレーに期待して集まった観衆は、釜本のシュートや、ゴール前でのパスに、手を叩いたり「シュート」と声を上げたり、遠来の客を応援しながら、自分たちもまた、サッカーを楽しんでいる風だった。
 西ドイツへ来て、つくづく思うのは、ゲームに集まる観衆が、サッカーをよく知っていること、そして第三者としてゲームを観戦するのでなく、心の中はゲームに参加する、つまり参戦していることだった。
 そうした周りの空気に触れ、夏のオフのことで、2〜3の太めのプレーヤーも見受けられる地元チームの果敢な攻撃を楽しみながらも、日本チームのゲーム展開に、心から冷えてゆくのはどうしようもなかった。

 マイボールのときに、攻撃に出るときに、日本の方は、ボールを持った者が、自分で突破しようとする気配を見せない。釜本や吉村は別として、殆どはボールを受けると、まずパスを出す場所を、止まったまま探そうとする。パスを出すことは決して悪いことではない。サッカーはパスのゲームだという人もあるくらいだ。しかし、目の前の相手に対し、ドリブルで突破されるかも知れないという懸念を持たさなければ、パスを出しても読まれてしまう。守る方にとって、この男はパスしかないと思えば、守りやすくなる。
 ジーグブルガー・クラブ、つまり地元チームは、ボールを取ったとき、自分の前にスペースがあれば、ためらうことなくドリブルで前進してくる。そして、日本のバックスめがけて突進し、それをドリブルで交わそう、あるいはそこからパスを出そうとする。

 もちろん、アマチュアで、どれもがそう上手いとは言えない。突破しようとして日本のバックスのタックルに潰され、ボールを奪われることが再三だった。しかし、まず自分で、ボールを持った者が主導権を握り、ボールを持った者の意志でプレーをしようというサッカーの基礎が、ここのアマチュアのゲームには、ハッキリとあった。
 「どうして、こんなにボールを持てないのですかネ。」あまりの冷え込みに、ハーフタイムにグラウンドから抜け出して、近くの喫茶店に飛び込み、温かいコーヒーを飲みながら、藤田さん(京都協会会長)と嘆きあったものだ。


少年とドリブル

 ドリブルというのは、さあこいと相手に向かい合って、それを突破するだけではない。敵に取られないだけでも良い場合もあるし、2〜3歩、位置をずらせるだけでも良い場合もある。要は、自分の体を動かしながら、ボールを運んでゆく技術である。
 誰もが、ヘーネスのように速い、長いドリブルができるとは限らないし、クライフほどの急激なスピードの変化をやってのけられる者は、そんなにいるわけはない。しかし、大抵の子供を見ていると練習を積み、経験を重ねていくうちに、次第に方向を変えたり、スピードの変化を付けたりできるようになるものだ。それなのに、どういうわけか、日本では、「持ち過ぎ」「パスを出すタイミングの遅れ」について、やかましく言うコーチは多いようだが、「ドリブルが上手になれ」と指導する人は少ないようだ。
 少年達のゲームを見ていても、高校、中学の試合でも、ベンチからの声は「早く蹴れ」というのが随分多い。そういう全体の流れが、キープできる、ドリブルできるプレーヤーの芽を殺してしまったのではないか。1968年(メキシコ・オリンピック)の日本代表には杉山がいた。宮本輝紀も、杉山ほどの長い速いドリブルはできなくても、味方が良い位置に出るための「間」を稼ぐキープができた。しかし、今は……。


オベラーツのプレー

 ウォルフガング・オベラーツは、私の好きなプレーヤーだ。
 ネッツァーかオベラーツか、この大会でサッカー好きの関心を集めたこの問題とオベラーツの活躍については、読者もよくご存知だろう。1FCケルンの主将として来日したときから、彼の礼儀正しい態度やキメの細かいテクニック、そして、時に見せるホットなプレーの一つ一つがすっかり好きになった。

 オランダとの決勝戦の同点ゴールは、ヘルツェンバインのドリブルから生まれたペナルティ・キックによるものだが、ヘルツェンバインへのパスを送ったのがオベラーツだった。
 オランダの攻撃を防いだ後、ベッケンバウアーが自陣でキープして、オベラーツに渡し、自分もオベラーツの横へ並ぶように前進した。このときオベラーツは、良い位置に味方がいない、と見ると、例の左足を使ったドリブルで右斜めに進む。その間にタッチライン際で、ヘルツェンバインが疾走、その後ろへ、FBのブライトナーも突進した。
 右へ斜めのドリブルからターンしたオベラーツは、今度は、得意の左足のキックでヘルツェンバインへ、30メートルのロング・パスをピタリと合わせて、同点ゴールの基盤を作ったのだった。このときのオベラーツのドリブル。そして、オベラーツのキープを信頼してのHB、FBの突進。これがなければ、あの見事なパスの成功は無かったと言える。
 オベラーツほどになるには、なかなかのことだ。しかし、日本リーグや、日本代表チームのゲームで有効なドリブルがないため、ゲームを見て砂を噛むような味気なさを感じている者にとっては、若いプレーヤーにボールを持つことをもっと上手になってほしいと思う。
 若いプレーヤーの上達によって、ジーグブルグの薄ら寒い日と、テヘランからの映像の印象が、私の頭から早く薄れていってほしいものだ。


(サッカーマガジン 1974年11月号)

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