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ヘルツォーゲーンアウラッハ、アディダス社での衝撃


南ドイツの田園で

 柔らかな丘の起伏と麦畑、時々現れる牧場と牛、赤い屋根と、まるでヘルマン・ヘッセのスケッチのような田園風景の中を車は快適に走っていた。初めての右側通行、狭い田舎道でのすれ違い、私は冷や冷やしながらも、窓外の緑の豊かさと大きさに、ヨーロッパへやって来た、という実感を噛みしめていた。

 6月7日、ルフトハンザ880便でフランクフルト空港に着くと、すぐ、荷物を空港の一次預けに放り込んで、1時間半後ニュルンベルグへ飛んだのだった。日本から北回りの20時間の長いフライトの後、初めての土地で動き回るのは、ちょっと強行スケジュールだとも言われたが大会が始まる前に、ワールドカップと非常に縁の深いサッカー用具の大メーカー、アディダス社を見ておきたかったのだった。


ボールとクツへの恨み

 世界各国のサッカー用具が日本中に氾濫し、また、国産の随分質の良いクツやボールがふんだんに市場に出回っている今の世代のプレーヤーに、私たちが、若い頃、どのように皮の用具を手に入れるのに苦労をし、どれほど大切にしたかは想像できないだろう。

 戦争と青春とが同時にやってきた私の十代後半は、ボールを蹴るのと同じように、破れたボールを自分で縫い、自分で修理する事が大事な仕事だった。いや、毎日3時間はそれに費やさなければ、ボールを使う練習やゲームはできなかった。40人の部員を抱えて、1年に10個の配給(それも最後にはなくなるのだが……)その新しいボールも組み合わされた12枚の皮の質が異なっているため、一度強く蹴ると、すぐ変形してしまうのが多かった。

 皮革統制による物の不足と、統制そのものの不均衡に対する不満などに悩んだ30年前の記憶、言い換えれば、若い頃の、クツやボールへの願望が、突如として蘇ったのだろうか。今度のワールドカップの旅を計画したとき、まず考えたのが、西ドイツの大メーカーを訪れることだった。


ハンドメイクと流れ作業

 本拠地のあるヘルツォーゲーンアウラッハはニュールンベルグから23キロ、バイエルン州の北部にある人口1万4千の小さな町。この辺りからは南ドイツの農場地帯で昔から労賃が安く、アディダス、プーマの二つの大きなスポーツ用具メーカーが工場を持ったのもこれが大きな理由だったという。

 日産8万足のスポーツシューズを作り出すアディダスの巨大さについて、詳しく述べる必要はあるまい。ウェアの一部は東南アジアで、サッカーボールの皮のなめしはフランスで、縫製はスペインでという国際企業である。本拠地で見たサッカーシューズの工場では、ハンドメイクと機械との混合、そして、それを流れ作業に乗せて行く行程の巧さ、出来上がった品物のパッキングから、倉庫への格納、そして出庫の段取りの付け方……。人手を掛けるところには掛け、人でなしで済ませるところは機械に任せる。
 この会社の創始者であるアディ・ダスラー氏には会えなかったが輸出担当部長のアリベコビッチ氏が、二つの工場のスポーツホテル、クツの博物館に案内してくれた。


豪華なスポーツホテル

 スポーツホテルというのは、会社が従業員や関係者のために作ったホテルで、32室あり、プール、サウナ、フィジカル・トレーニング用の部屋、そして、すぐ側に芝生のサッカー場、テニスコート、そして例によって美しい森がある。地下の従業員食堂は華やかさはなくてもすべてが落ち着いていたし、一階のレストランの調度の豪華さにはいささか驚かされた。レストランの天上は、教会を解体するときにそのまま移したそうで、部屋全体をクラシックにまとめ、それでいて、庭に面した大きなガラスの壁はスイッチ一つで開閉できる、いわば、クラシックとモダンの見事な融合だった。
 ここでの昼食は、やや疲れていたせいか、あまり進まなかったがデザートのイチゴクリームの美味しかったこと、丁度イチゴのシーズンだと、給仕人にわざわざ粒の小さくて美味なのを揃えるよう注文してくれたから、なおさらだった。


スポーツ・シューズ博物館

 スポーツホテルに驚かされた後、彼らの言うクツの博物館では、感心するというより、ここの連中のクツに掛ける執念に衝撃を受けた。
 博物館というにはいささか小規模だが、ペナルティエリアほどの大きな一室に陳列された250足のスポーツシューズはそのまま世界のスポーツ史でもあった。アディダスがまだ2本線だった頃、1936年のベルリン・オリンピックの100メートルでオウエンス(米)が履いたスパイク、1954年無敵ハンガリーをスイスのワールドカップ決勝で破った、西ドイツ代表チームのフリッツ・ウォルターが使ったサッカー・グツ。モハメッド・アリことカシアス・クレイ、あの黒人の世界ヘビー級ボクサーがリングで軽やかにステップを踏んだボクシング・ブーツ。スポーツ好きな者には、一日いても飽きることのない逸品が、壁いっぱいに並べられていた。
 1966年ワールドカップでベッケンバウアーが使ったというクツは右のつま先が破れていた。「ベッケンバウアーは7.5のサイズで、標準なのだが、やはり、気に入った靴は、とことんまで履き潰すようです。」とアリベゴビッチ氏は言ったが、私はあの独特の右足のキック、特に足音を立てるアウトサイドと、つま先でのチップキックのベッケンバウアーのフォームを思い出しながら、破れたクツにしばらく見入ったものだ。

 この250足のクツは、単なる収集の興味を越えて、クツの技術の歴史を読みとれるのが面白かった。
 昔、底に皮を打ち付けていた時代からスタッドをねじ込むようになったエポック・メークも、ここの棚の中に見られるし、ゴムという便利で厄介なものを靴底に使い、その性能を伸ばしてきた歩みまでも自然に理解される。
 陸上競技の今日のスパイクの形になるまで、どれほどのポイントが変化したか……。
「私は、暇を見つけると、この部屋へ来ます。今の仕事は貿易関係ですが、ここでクツの時代の流れを見つめると、新たな仕事への意欲が湧くのです。」ユーゴ人であって、要職を任されているアリベゴビッチ氏はこう言うのだった。

 その日の夕方、ニュルンベルグからフランクフルトへのとんぼ返りの機中で、時差ボケと長いフライトの疲れにも関わらず、私の神経は高ぶっていた。ドイツ人の技術に対する追求の凄さは、これまでもいろんな方面で見てきた。クラーマーのサッカー指導技術でもそうだった。ドイツのサッカーテクニックそのものもそうだ。しかし、その中に、クツの博物館に見られたように、あるいはスポーツホテルに見たように彼らは歴史の中で、一つの流れの中で、今の技術を高めることを求めている。

 日本のサッカーはどうか。日本にもある時期、良いプレーヤー、良いチームが出た。技術の流れもあった。それが、1960年代から、全くそれ以前と関わりなくスタートした。我々は、このやり方でいいのだろうか……。この日の手帳のメモにはこう記しある。「ドイツに来て歴史と技術を考える」と。


(サッカーマガジン 1974年12月号)

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