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ウェストファリアの麦畑で見た、小都市のセミ・プロ・チーム

シュロッツ氏のガストフロイントリヒカイト

 時速140キロ、アウトバーンを走るベンツは、かすかな心地よい振動を繰り返し、ハンドルを握るシュロッツ氏の顔は晴れやかで時折鼻歌も流れた。
 ワールドカップもいよいよ二次リーグに入って、地元チームの西ドイツが次第に地力を現し、ユーゴ、スウェーデンを撃破して、後はポーランド戦(7月3日)を残すだけとなっていた。一次リーグでの戦い振りに不安を抱いていたすべてのドイツ人の表情が明るくなるのも当然だった。

 フランクフルトをベースに一次リーグを見て回った私は、二次リーグはデュッセルドルフを中心にすることにして、6月23日夜から滞在した。
 ルールの大工業地帯をバックにしたデュッセルドルフは、西ドイツ随一の商取引の町として名高く、日本の商社もここの目抜き通りに軒を並べているが、日本のサッカーファンには、すぐ南にあるケルン市の方が、73年夏に来日したオベラーツと彼のチームによって親しい名となっている。

 そのオベラーツと、1FCケルンを率いて来日したのが、ルディ・シュロッツ監督だった。
 69年にバイスバイラー監督のアシスタントとしてボルシアMGと共に日本を訪れたこともあるシュロッツ氏は三菱のプレーヤーをはじめ、日本にも多くの知己を持っている。73年秋に1FCケルンの監督を辞めて、本職の高校の先生に戻った彼は74年夏から、ブンデスリーガ2部のDJKギュッタースローというチームのコーチを引き受け、この日、7月2日のドライブは2部リーグ開幕(8月3日)を1カ月後に控えた初練習を見に行くためだった。

 ドイツにはガストフロイントリヒカイトという言葉がある。客を大切にもてなす心とでも訳すのだろうが、シュロッツ氏のそれには全く頭が下がる。
 彼は、大都市や一般観光地よりも、小さな町のスポーツ施設やスポーツクラブ、そして郊外のできるだけドイツ的な自然の残っているところを見たいという。厄介な私の注文に応じて、既に二度ベンツを走らせてくれた。お陰で、デュッセル近郊のブッバタール(人口42万)のスタジアムや刃物の町ゾーリンゲン(18万)の体育館(一階がプールで二階が体育館という珍しいもの)やモンハイム(4万)のサッカークラブ、陸上競技クラブなどを見ることができたのだった。


人口8万の町のリーガ2部のクラブ

 ギュッタースローは人口約8万、デュッセルドルフ北東約160キロ、ちょうどハノーバーへ行くアウトバーンのほぼ中間にある。初めのうちルール工業地帯を走り、遙かにそれと分かる炭坑の巨大な煙突を眺めているうち、次第に景観は、ライ麦畑と牧場に変わる。 「この辺りはウエストファリアの典型的な農耕地帯なんだ」というシュロッツ氏の説明に、ふと、記憶を呼び起こす。

──ウエストファリアというのは、あのウエストファリアの和約と同じところですね。

「おお、ウエストファリアの平和条約を知っていたか。あれは、この近くのオズナブリュックとミュンスターという二つの市で締結されたんだよ。」

 1618年から1648年までの30年間に渡ってドイツ全土を巻き込んだ宗教戦争は、史家によればドイツの近代国家成立を約1世紀遅らせるほどの荒廃をもたらしたという。その集結を告げた初めての国際会議の舞台が、この近くであったかと思うと、夏の風にそよぐ麦畑にも感慨が湧くのだった。

 さて、DJKギュッタースローは、創立1923年。DJKというのは、元々カソリック系のドイツ青年連盟の略号で、今クラブはDJKとは関係はなくなっているけれども、そのまま名前は踏襲しているという。昨シーズン、つまり72年─73年シーズンは西部地域リーグ(18チーム)に属していた。
 ご存知のように、西ドイツでは昨年までブンデスリーガの下に南(18)西(18)北(18)南西(16)西ベルリン(12)の各レギオナル(地域)リーガがあったが、74年夏からブンデスリーガに2部を新設(北と南に各20チーム)した。ギュッタースローにはDJKの他に、もう一つSVアルメニア・ギュッタースローというクラブが西部地域リーグに加入していたのだが、これはアマチュアに留まってブンデスリーガ2部へ入らなかったため、この町からはDJKだけが2部入りすることになっていた。
 2部入りしたこのDJKギュッタースローは会員数1700、市内にアンツーカーの練習場1面と簡素なクラブハウスを持ち、有料ゲームは市が所有のハイデバルト・スタジオン(収容2万)を使用する。プレーヤーは契約選手19人、アマチュア6人で、契約選手はいわゆるセミプロ、午前中は町の工場やオフィスで働き、午後にトレーニングをする。平均して基本のサラリーは500マルク(5万5千円)、ボーナスは加地試合で500マルク、引き分けで250マルク、一月に2勝すればサッカーで15万円強を稼げることになる。もちろん契約金もあり、中にはブンデスリーガ1部から移籍してきたのもいる。

 初練習は、クラブのアンツーカーでなく、市の芝生のグラウンドを借りて、午後5時から行われた。内容はアシスタント・コーチの指導によるフィジカル・トレーニングを主とし、終わりの30分ばかりが紅白マッチだった。ワールドカップのハイレベルになれて、いささか贅沢になった私の目は、個々のプレーヤーについてもゲームについても、特に驚くことはなかった。しかし、ミッドフィールド、ゴール前を問わず1対1のボールの取り合いの激しさは、さすがにセミプロと思わせるものがあった。
 何より良かったのは、タッチラインを取り巻く数十人のクラブ員たちの身の入れかた。好プレーには手を叩きシュートを止めるGKのセービングには声を上げ、それが夕暮れの練習に熱気を盛り上げて行くことだった。


地域社会とスポーツ・クラブ

 練習の後、町のレストランの別室でクラブの役員とコーチ、選手はミーティングをしていた。その小さなレストランの窓際で、私は地域社会とスポーツを改めて考えさせられた。
 前日(7月1日)に見たジーグブルクのアマチュア(74年11月号に掲載)、3日前に見たモンハイムの少年達、年に根を下ろしたスポーツクラブのチームが、その都市を代表して、他の都市のチームと試合をすることから、ヨーロッパの競技はスタートした。市民が自分たちで施設を作り、クラブを作り、スポーツを楽しみ、そしてその中からプロが生まれてきた。競技の最も自然な形がドイツのサッカーの組織の基礎になっている。DJKギュッタースローは1700のクラブ員と、更に8万人の市民をバックにして2部リーグで戦う。
 それ故に、ギュッタースローのハイデバルト・スタジオンは時に2万の観衆で満員になる。

 この規模を大きくしたのがミュンヘン市民のバイエルン・ミュンヘンであり、ケルン市の1FCケルンである。そして、市や地域のチームへの感心と応援は、やがてナショナルチームへの声援に繋がって行く。自分の町のチームを応援する素朴な感情が拡がって、国単位になっていく。
 東京オリンピックの翌年、日本サッカーは企業チームによる日本版ブンデスリーガ「日本リーグ」をスタートさせて、一つの成功を見た。しかし、その日本リーグが頭打ちの所にきている今、都市とスポーツを考え、企業チームを真剣に考え、企業チームをその土地の住民に結びつける方策を実施する時期にきているのではないか。

 ギュッタースローからの帰り、シュロッツ氏のベンツは160キロまでスピードを上げた。スピードを増せば増すほど快適な走行に、私は、すぐガタのくる名神高速道路と比べ、果ては、日本サッカーと西ドイツのサッカーの基礎に思いを馳せるのだった。


(サッカーマガジン 1975年1月号)

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