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しつけの厳しさ〜シェパードと子供とクラーマー

 インコの名はレップとハーン

 「うちの娘がインコを2羽貰ってきましてね。名前を付けたんです。レップとハーンと・・・。初めは何のことか分かりませんでした。」

 京都に住む友人がこんなことを言う。中学と高校の姉妹はどういう訳か、すっかりサッカー好きになったらしく、インコにオランダ代表チームの選手の名を付けるほどだ。クライフやベッケンバウアーなら、スポーツ好きの常識とも言える有名さだが、レップやハーンまで覚えるとなると、これはちょっとしたものだ。

 京都は、藤田静夫会長はじめ協会の人達の努力で、随分サッカーは普及しているが、サッカーの後進年齢層にある昭和シングルのオヤジさんには、レップとハーンのクラスについて行くのは、大抵ではない。月曜日夜のU局によるワールド・サッカーの放映で、娘達が、画面に映るプレーヤーの名前を気易く呼ぶのをいささかぶ然たる態度で見ているのだ、と言う。

 テレビや放映や、雑誌や新聞のお陰で、サッカー・ファンが増えているのは、誠に嬉しい。最も、こうしたファンの中には、外国ゲームなら見るが、日本の試合は下手だから感心がない、と言う人も少なくない。

 確かに、プロ中のプロがプレーするワールドカップから見ると素人のゲームは、「見るもの」としては面白くないかも知れない。一流の音楽家の演奏と素人を比べるようなものと言える。良いものを見れば、また良いものを、と言うのが人情で、国内でもペレを見たら、今度はベッケンバウアーやミュラー、それが済んだら、クライフを見たいとは、誰もが考えることだ。

 そうしたファンの要求を満たすことは、協会の大事な仕事の一つでもあるが、レベルの高いものを見せることだけが最重要な仕事であってはなるまい。我々は日本サッカーを「する」人達がより高いレベルでの喜びを持てるように持って行かねばならない。そうすれば2羽のインコの名も、レップとハーンとは違ったものになるかも知れない。



 ワン公同士は無関心

 インコの話からとんだ自己批判となった。西ドイツの旅は、前号で少し触れた犬ーワン公の印象を続けたい。

 本場だから、当たり前と言えばそれまでだが、ドイツではタクシーがベンツで、その辺をうろうろしている犬はシェパードが圧倒的に多い。特にフランクフルトではそうだった。

 私の泊まったホテルの面しているフリードリッヒ・エバート・アンラーゲは、フランクフルトの空港から見た見本市会場へ通じる大通りで、この広い通りの中央に大阪の御堂筋の2倍くらいの幅の林の中間地帯が、帯状の公園となっている。その公園を歩くと、しょっちゅうワン公に出会う。主人のお伴で、ロープに繋がれているものもあれば、そうでないのもある。おおきなシェパードがやってくるから、主人が付いてくるのかの見渡しても、、誰もいない場合もある。こうしたワン公が、日本の常識から見て不思議なことに、お互いがすれ違っても、一行に関心を示さないことだ。

 日本なら、いきなりケンカになるか、ケンカにならなくても、お互いがまず、においを嗅ぎにやって来る。その時には、大抵警戒の色をいっぱいに現し、毛を逆立てるのが多い。

 しかし、ドイツではそれがない。主人に連れられたシェパードがすれ違うのをすぐそばで見て驚いたのは、犬の関心は相手のシェパードにあるのでなく、主人の方に向いていることだった。

 皆さんは名犬ラッシーのテレビでコリー犬ラッシー君の名演技をご覧になっているだろうが、ラッシーに限らず、犬の演技を見ると、画面の中で、犬は自分の主人役になる人と一緒にいても大抵の場合、犬の気持ちはそのアクターに向かっておらず、画面に現れない訓練士(調教師)の方に向いていることが分かる(その訓練士の命令で犬の動作が決まる)。

 こういう風に犬の気持ちを絶えず主人の方に向けるのは、相当な訓練がいる。その訓練高さをフランクフルトで出会うすべての犬に感じられるのが不思議だった。

 日本で犬を飼って困るのは、他の犬とトラブルと、もう一つは、犬が吠えたり、鳴いたりして騒音となることだ。犬にやたらに鳴かせないことはしつけの第一歩だが、まず日本では励行されていない。日本が騒音に平気なのか、とも思うけれども、戦前町がもっと静かな時代でも、犬のわめき声をよく聞いたから、やはりしつけ不足だと言うことになる。犬の静かなことと、犬同士がケンカをしない不思議さについて、ホテルのフロントや、サッカー・コーチのシュロッツさんや、何人かの人に尋ねたら、みんな聞かれたことに、びっくりしたような顔をして、しばらく考えた末、しつけるんです、と言うだけだった。



 子供のしつけ

 しつけということが出たついでに語れば、幼い子供のしつけの良いことは、ただただ感心するばかりだった。駅でも車中でも飛行機でも、子供は全くおとなしい。

 ミュンヘンの家族的なホテルの食堂で、朝食を一緒にしたドイツ人夫婦の2人の子供。胸にクライフの似顔絵の入ったシャツを着た腕白盛りの2人が、ホテルの主人や私たちと親とが話している間、既に子供達は腹一杯になっていて、手持ちぶさたなのにも関わらず、静かに20分も話を聞いていたのには、全く恐れ入った。

 日頃、日本の子供達のしつけのなさに文句を言い続けている私だが、大人の話題に入り込もうとせず、大人しくしている坊やを見ると、つい、「クライフが好きか」「ベッケンバウアーは何度見たか」と声を掛けてしまうのだった。

 帰国する際の飛行機で隣り合わせた若い娘さんが、ハンブルグ育ちで、今カナダで先生をしているというので、子供のしつけのことを聞いたら、「自分は子供は好きだが、しつけるときには妥協しない。犬の場合もそうでしょう」と答えた。彼女は、日本では「先生がそばにいても生徒の集団は喧しい」と言う私の言葉を信じられないと言い、カナダはドイツより、もっと厳しくしつけると言っていた。

 小さいうちに厳しくしつけ、成長すれば、結婚も就職も本人の自由に任せる。犬も、厳しくしつけられて、社会に適応できれば自由に歩く。

 基礎の高い技術を持ち、個性を生かし、それぞれの判断でゲームを切り開いて行く西ドイツのサッカー。そして、基礎技術を指導するときに、妥協を許さなかったクラーマーの態度。犬という動物を人間社会の仲間にして行くために、子供を大人の社会に適応させるために努力する。その徹底振りは、かつて南米に比べてボール・プレーの著しく劣るとされた西ドイツのボール・テクニックを高め、ついにはベッケンバウアーのようなプレーヤーを生み出した今のドイツのサッカーと同じなのだろうか。

 フランクフルトからニューヨークへ、大西洋上で、犬と子供とクラーマーを反すうし、この娘さんもまたドイツ人の「徹底」を持ち合わせているのかと空恐ろしく、かわいい顔を眺めるのだった。


(サッカーマガジン 1975年4月号)

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