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森の国のシュタットバルトで〜DSJとスポーツ少年団

 ドイツは森の国・・・。1974年6月7日、大阪から20時間余りの北回り便、ルフトハンザ機で白々とした北欧の朝を飛び抜けハンブルクを経て、終着、フランクフルトに近づく機上から、ドイツを見下ろした印象は「森」だった。都市の外縁には森があるとは聞いていたが、その森や林の大きさは、私たちが日頃頭に描く程度ではなかった。大袈裟でなく、関東なら富士の裾野や秩父、関西なら大峰などの奥深い山地でなければ見られない「大森林」がここでは大都市の側にやたらにあった。

 フランクフルトの近代的なヨーロッパ一の空港も、空港の少し北にあるワールドカップの開幕会場、バルト・スタジアムも、ともに市の公有森林地帯の中だった。



 根を下ろしている青少年スポーツ

 バルト・スタジアム(バルト=森)の周辺はヘッセン州スポーツシューレ、連邦体操協会のシューレがあり、また西ドイツ体協やサッカー協会の本拠があって、大スポーツセンターを作っている。最も、それぞれの建物の間を、それこそ、我々の言う「森」が仕切っていた。

 西ドイツ体協のしゃれた建物の一階の端にあるDSJ(ドイチェスポーツユーゲント)つまり日本で言うスポーツ少年団本部を訪ねたのは6月10日、京都協会の藤田静夫会長のお供をした。藤田さんはこの年の夏に日本からドイツへ送り込むスポーツ少年団の人数や、ドイツ側の受け入れ準備についての相談が目的だった。渉外事務を担当している高橋のり子さんという日本女性の通訳で、事務長のメバート氏からユーゲントの概略を説明してもらった。高橋さんはDSJにも長く、ドイツ体協を訪れる日本の関係者は、大抵彼女の流暢なドイツ語の助けを借りることになる。ドイツのスポーツユーゲントについては、日本のスポーツ少年団の発想の素となったもの。いわば本家筋にあたり、既に折に触れて詳しく紹介されているから、改めて語ることもないが、日本と根本的に違うのは、まず各地にスポーツクラブがあり、そのスポーツクラブの少年会員が、スポーツユーゲントになっていることだった。西ドイツには4万のクラブがあり、これがそれぞれ州スポーツ連盟に登録する(日本で言えば府県体協)と同時にそれぞれの競技団体に登録する。これがざっと1千万人いるが、このうち480万人が21歳以下で、ユーゲントとなる。

 スポーツクラブの中にユーゲントの代表を置き、これが郡、州という単位で組織化されて全国的な行事や会議はこの組織で行うのだが、日頃スポーツ活動は、それぞれのクラブでやっている。したがって子供達が、ユーゲントの全国大会にやってきても自分たちは××クラブのメンバーということは知っているが、××ユーゲントだとは覚えていないのが多いという。

 「DSJは、単に政府からお金を貰ってきて、それを適正に分配するだけの機関じゃないか・・・という気もします」という話しもでた。14歳から18歳までのドイツ少年のうち45%、少女のうち18%、14歳以下では少年の30%、少女の22%がスポーツクラブのメンバー、つまりスポーツユーゲントという現状(1971年)から更に多くの青少年にスポーツを浸透させるために、年間約6億7千万円の予算を組み、そのうち6分の5を家庭青少年健康省からの補助まで賄う(1974年予算)DSJだが、400万、500万人となればその実際の活動は各地のクラブに任せ、そこの州のユーゲント本部、郡のユーゲント本部を通じて補助金を分配して行くことになるだろう。そしてそれが、ここの主たる仕事になるのも、また致し方ない気がした。

 逆に言えば、それほど西ドイツの青少年スポーツは深く根を下ろしている。日本なら、スポーツ少年団本部が音頭をとってやり出さなければ事は進まぬが、ここでは村や町のクラブで、既に事は動いている。

 DSJはそれに刺激を与えるだけだという。誠に羨ましいような話だった。



 保護し、育成し、次の世代へ

 ドイツ体協と近隣のスポーツセンターを取り巻くフランクフルター・シュタットバルトは、この日からもセンター見学のために再三足を運ぶことになった。センターの施設については別の機会に触れるが、私には施設の素晴らしさとともに、それを作り、次の世代に残そうとする考え方に、森を残し、育成した彼らの先代の姿を見るのだった。

 ミュンヘンであったフライブルグの若い記者も、日本商社に勤めるステヒャー君も、等しく森の話が出ると「森を残してくれた先祖に感謝しなければならぬ」と言っていた。その森を、とても原始のまま放って置いたのではない。手入れをし、保護し、植林した。


 今の大人が後の世代に残すものは・・・森の小道の冷気の中で私は思うのだった。

 ドイツのシューレ的なもの、センター的なものは、国や市や県の金で日本にも出来始めた。しかし、本当にどっしり根を張るためには、日常のクラブがなければならぬ。私たちが神戸で作った法人のスポーツクラブは、そのための一つのひな形としても、何とか地盤を気付かなければならぬ。後の世代に喜んで貰えるために・・・。

(サッカーマガジン 1975年6月10日号)

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