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ネッカー河畔での円熟期のマッツォーラ

 ヤンマー、三菱戦の不満

 5月25にちの日本リーグ、ヤンマー×三菱は失望の大きな試合だった。三菱のセンター・バックの斉藤の忠実なプレーとGK田口の安定は収穫で、リーグの当面のライバルを相手に(たとえ相手が自滅したにしろ)自分の力が出せたことは、今後の2人の上に大きなプラスになるはずだが、2人の若手の良いプレーを見せて貰いながらも、全体の消極的な運びに、心は晴れなかった。両チームの技術、戦術の不満はまた別の機会に譲るが、それとは別に、気になったのは、スタンドの反応、ヤンマーのディフェンダーのミスで、2-0となった後、しばらくスタンド全体がシーンとなってしまったことだ。ゲーム中、致命的なミスをしたプレーヤーは意気消沈するか、カッとのぼせてしまう。そんなときには仲間の励まし、スタンドの声援が随分力になるのに、数分間、スタンドは沈黙のままだった。

 74年ワールドカップ決勝の、開始後1分、クライフをマークするフォクツが抜かれ、ヘーネスがファウルしてそのために西ドイツはペナルティを取られ、早々に1点を失ったとき、確かに、スタンドはオランダ人の一角を除いてシーンとなった。しかし、すぐその後、フォクツの心を引き立たせる「ベールティ」の声がスタンドを覆ったのであった。二次リーグのスウェーデン対西ドイツ戦でエドストレームのシュートによって西ドイツがリードされたときにも、観衆の「ドイッチェランド」の大声援を受けて、西ドイツはこれを跳ね返していくのだった。(74年9月、11月、75年5月号参照)



 あれから一年

 さて、早いもので、この号が出る頃は、第10回ワールドカップの閉幕日から、ほぼ1年になる。私の連載も12回目、普通なら1年前の回想を続けるのは古くさい、ということになるのだろうが、ワールドカップのテレビ放映も、今二次リーグの佳境に入っている。こちらもしばらく続けて行こう。



 体操協会専用のシューレ

 前号は1974年6月17日、タウヌス山の印象だった。その翌18日、夜のスコットランド対ブラジルまでの時間を利用してフランクフルトのシュタットバルト(市有森林)の中にある西ドイツ体操協会のシューレを見た。

 シューレは訳語としては「学校」だが、スポーツ・シューレの場合は強いて学校と訳されずに、スポーツセンターとしておいた方がピッタリくる。ただし、日本のセンターと違って何人かのコーチが常勤している。西ドイツのサッカー協会は金持ちだから、各地にセンターを持っても不思議はないが、体操協会が全国にただ一つにしても、自前の体育館と宿泊施設を持つことは、やはりこの国の体育組織のしっかりしていることの証だろう。



 ブラジル対スコットランド

 そして夜のゲーム、これは、誠に壮烈だった。ブラジルの守備重点、スコットランドの単純なロビング攻撃、どちらも、余り頂けないが、両チームの鍛えられた肉体の強靱さには、ただ恐れ入った。

 力と力がまともにぶつかり合う。こんなゲームを見せられると、日本人の身体を思わずにはいられない。日本サッカーで、スケールとストロングの標本であった釜本が海外で「エレガント」と呼ばれるのも、また納得いく次第でもあった。



 イタリアの崩壊

 19日午後1時20分、フランクフルト空港からシュツットガルトへ飛んだ。ここは15日(ポーランド対アルゼンチン)に次いで2度目。

 フランクフルトはヨーロッパ大陸第一の大きな空港で、下手すると出口を間違えるが、ここはこじんまりして、乗降も気楽なものだ。

 空港から市の中心部までバスで丘のうねりを越え、盆地へ降りて、20分。そのバスターミナルの近く中央駅のすぐ側の停留所から電車に乗って、ネッカー・スタジアムへ行ける。ネッカー河は、有名なハイデルベルクでライン河に合流する大支流のことで、この辺りまで大きな船が上がってきていた。

 アルゼンチン対イタリア戦は、イタリアのリーバ、リベラが不調。ファケッティにも衰えが見えた。

 ただ一人、サンドロ・マッツォーラだけが評判通り、いや評判以上だった。相手の構えに無頓着に見えて、その実、足の先端ぎりぎりの所へボールと身体を持っていって抜き去るドリブル。2人の敵の間を突破するとき、心憎いまでの小さなステップ。バックスイング無しで右足で蹴れるセンタリング。ルックアップして逆サイドを見て、引きずるようにしている右足を後方へ振り上げないのだから、蹴るタイミングは一つ早い。しかも細いきゃしゃな身体からこのキックで中距離パスを見事に届かせる。これらはどれもが彼独特のものだった。

 サンドロ・マッツォーラの名は1965年にクラーマーが来たときに、イタリアの話が出て聞いたことがある。1942年生まれの彼は、飛行機事故で死亡したトリノの名選手「偉大なるマッツォーラ」を父に持ち、デビューのときはマッツォリーノ。つまり小さなマッツォーラと呼ばれていた。クラーマーがこの話をしたとき彼は既にインター・ミラノのゲームメーカーで、以来イタリアのミッドフィールドの柱となっていた。

 20日にフランクフルトに帰り、22日に再びフランクフルトからハンブルクへ飛んで西ドイツが東ドイツに破れる番狂わせを見た後、23日に再びシュツットガルトへ舞い戻って、ここでイタリアの敗退を見届けたが、ポーランド戦でも不調の仲間の中でのマッツォーラの頑張りは誠に胸を打つものがあった。かつて大試合には、力を出さないことがあると言われたスマートボーイも既に32歳、その円熟期のプレーを見られたのが、ネッカー河畔での私の幸いだった。


(サッカーマガジン 1975年7月10日号)

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