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豊かなハンザ・ハンブルク

 空港のサービス

 「ようこそハンザ・ハンブルクへ」

 初老の運転手氏は陽気に挨拶する。

 「ハンブルクは世界で一番美しい町です。十分お楽しみ下さい。」

 74年6月22日、ワールドカップ一次リーグの最終シリーズ。第1組の東ドイツ対西ドイツを見るため、この日の朝、フランクフルトを飛び立ってここへ来た。

 フランクフルト空港は、初めのうち、その余りの大きさにいささか戸惑ったが、一度出入りすると、機能的な良さがよく分かる。市中のホテルから中央駅へ出て、そこから、「空港行き」は料金1マルク。空港の地下2階まで運んでくれる。重い荷物は手押し車を探して積み込む。持ち手の握りで、ブレーキを調節でき、ストッパーがしっかりしているから、エスカレーターにも乗せられる。フランクフルトは無料。シュツットガルト空港は1マルクだったが、こういう便利な手押し車を使ってみると、つくづくドイツ人の生活技術に対する配慮に感心する。こんな事は、細やかな日本人の方が得意だと思うのに、実際には、日本ではサービスと言えば電車の中へ「おしぼり」を持ち込んだり、駅弁の包み紙の色彩を考えたりする方へ、頭が行ってしまうようだ。

 サッカーの技術に対する態度の違いも、また、故のあることかも知れない。



 水と緑の町

 それはともかく、フランクフルトから飛行1時間。北ドイツのハンザ・ハンブルクは、夏の美しさに満ちていた。

 「飾りの窓の女」で知られるハンブルクは歓楽街の華やかさが一つの売り物になっている。フランクフルトでも「遊ぶならハンブルク」と教えてくれる人もいた。そんなところから漠然と、騒々しい港町を想像していたのに、フールスビュッテル空港から市中のホテルまでの、このしっとりと落ち着いた町並みはどうだろう。

 街路樹の緑は豊かに、家々の花は爽やかな空気の中に、見事なアクセントを付けていた。

 予約したホテル「デーニッシャーホフ」は外アルスター湖に近く、部屋の窓を開けると、中央駅が見えた。

 アルスター湖は、エルベ河へ注ぐアルスター川をせき止めて作った人工湖で、内アルスター、外アルスターに分かれる。外アルスター湖の周りは公園があり、外国公館、高級住宅などが建ち、プレスセンターのインター・コンチネンタルホテルも西岸にある。

 デーニッシャー・ホフからプレスセンターまで、つまり湖の東南側から西側まで、ケネディ・ブリッジを渡って徒歩で約20分。湖の上にはヨットが浮かび、若者がエイトの競漕に歓声を上げて、土曜の昼下がりを楽しんでいた。



 H・Hはサッカーどころ

 13世紀のハンザ同盟以来、北ヨーロッパの貿易の中心になったこの港町の人達は、その繁栄とともにハンザの名称を忘れることはない。自動車のナンバープレートで都市の略号を現すのに、ベルリンはB、ケルンはK、ミュンヘンはMというように大都市は何処も一字だけがベルリンに次ぐドイツ第二の大都会人口200万のここはH・H(ハンザ・ハンブルク)の略号を使用する(Hだけならハノーバー=人口52万=を現す)。そして、その自由都市国家としての伝統は、今も一市でありながら一州を形成するというユニークさに生きている。

 商業の発展によって自由と、自由な市民生活を築いてきたH・Hは、また早くからスポーツを定着させた町でもある。イングランドで1863年にルール統一のできたサッカーは、海外の多くの楽しみや品物とともに、この港からドイツへ伝わった。1881年にアングロ・アメリカンというスポーツクラブを作ったこのビジネスマン達が、サッカーをやり始めたのがドイツにおけるフスバル(フットボール)のスタートであったらしい。そしてハンブルガーSV、あのウーベ・ゼーラーのクラブは1887年創立、ブンデスリーガでは、一番の古さを誇っている。



 豊かさは歴史の厚味と

 知識としては、そんな歴史も頭の隅にはあった。しかし、アルスター湖半のベンチに座って、遙か対岸の建物、すぐ前の優雅なヨットクラブを眺め、エイトのレースの歓声と、それが消えた後のボートの立てた波がひたひたと小さな桟橋に寄せてくる音を聞くと、今更ながらこの町の豊かさ、そして、それを支える歴史が実感として迫ってくるのだった。第二次世界大戦で名高かったハンブルク大空襲の傷跡も、結局はここの歴史の厚味に包まれて消えてしまったのだろう。


 この夜のゲームは、西ドイツの華やかな攻撃を、東ドイツが頑健な守りで防ぎ、見事なカウンターで勝利をもぎ取るという、興味満点の番狂わせだった。それはまた自由なハンブルクが、軍律の厳しいブロシヤに屈したある時期の歴史のようでもあった。しかし、西ドイツ代表チームの一人一人の技術、鍛練の度合いは、明らかに東ドイツ代表とは段違いの、トップ・プロとしての厚味があった。この敗戦の跡を、彼らはその技術の厚味で消すことができるだろうか。

 アルスター湖半のホテルで、深夜、日本への記事送稿の時間を待ちながら、私はハンブルクの豊かさと、ここで見つけた新しいテーマを反すうするのだった。

(サッカーマガジン 1975年7月25日号)

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