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ハンブルク、シュツットガルトそしてデュッセルドルフ

 ペレって誰だい

 ペレのニューヨーク・コスモス入りは、誠に面白いニュースだった。そのデビュー戦での1得点、1アシストをはじめ、ボストンでの軽傷、ペレのお陰でNASL(ノースアメリカン・サッカー・リーグ)は世界中にそのゲームの模様を知られることになる。キング・ペレが彼のトップ・フォームを維持できるかどうか、ペレには大変なことだろうが、世界のサッカーのためには、3年間、頑張ってほしいと思う。

 東京オリンピックの年にアメリカのEPS通信の記者が「ペレって誰だい」という記事を書き、それを朝日新聞が掲載した。世界で有名なペレの名前を聞いて「ペレって誰」と聞き返すような人は、だいたいアメリカ人だろう、というような書き出しだったと記憶している。今から11年前の日本でも大多数は「誰だい」の方だったろう。そのアメリカのリーグにペレが加わる。サッカーを通して、ペレを通して、アメリカの一般市民がヨーロッパや南米の市民と共通の話題を持てることになる。



 ニューヨークの摩天楼で

 昨年のワールドカップを見た後で、私はフランクフルトからニューヨークへ飛び、モントリオール、バンクーバーとアメリカ大陸を横切って、更にバンクーバー、アンカレッジを経て羽田へ帰った。ニューヨークの巨大なケネディ空港に着いたときに、まず感じたのは、サッカーのない国へ来たということだった。もちろんプロのリーグも当時やっていたけれど、空港や町中、至る所にWM74やチップとタップのポスターや品物が氾濫している西ドイツに比べると、全くサッカーが沈黙しているようだった。

 だからエンパイヤステートビルディングの中で「あなたはワールドカップを見たのですか」と聞かれたときには、いささか驚いた。質問の主は3人のスウェーデンの若者で、みんなエドストレームのようなノッポ。私のネクタイのWM74のマークに気が付いて声を掛けたのだった。お陰で86階の第一展望台まで、エレベーターの中はスウェーデン代表チームの素晴らしさ、エドストレームの見事なボレー・シュートやGKヘルストレームの守りなどを語ることになった。3人の若者は目を輝かして頷くのだった。



 モントリオールのホテルで

 モントリオールで泊まったリッツ・カールトン・ホテル。フランス風にちょっと威儀を正したコンセルジュのいるこのホテルで、サッカーの話は部屋のメイドが相手だった。彼女はポルトガル人で、ここへ来て15年になる。サッカーは大好きだという。私は日本でエウゼビオを見たというと、彼女は「彼はいい選手だ。しかし、私はベンフィカよりもスポーティング・リスボンの方が好きだ」と言っていた。

 カナダと言えば、シュツットガルトのネッカー・スタジアムへ行く電車の中でカナダに住んでいるというおじいさんと話をした。シュツットガルトには兄弟がいるとか、ワールドカップのような良いゲームはカナダにいては見られないので、観戦を兼ねて来ているのだという。サッカー協会に関係しているのかと聞いたら「別に、ただ好きなのさ」との返事だった。



 ヨーロッパは狭い

 ペレからアメリカ大陸へ移った話が、シュツットガルトへ戻ってきた。そう、今回のこの続き物はシュツットガルトだった。

 74年6月23日、朝8時、ハンブルク空港を出たイタリア航空機435便は1時間で予定通りシュツッツガルト空港に着いた。この機はここで給油した後、ミラノ、ローマへ飛ぶ。ミラノへ約1時間、ローマへまた1時間。「昼にはローマへ着くんだな」と今更ヨーロッパの国々の近いことを思う。1958年の第3回アジア大会(東京)でインドネシア代表チームをコーチしていたユーゴ人のボガチニク氏に、アジア・サッカーの問題点を聞いたとき、彼は第一に「アジアが広いために国際交流がヨーロッパに比べ少ない」事を上げていた。なるほどヨーロッパは隣国へ手軽に行ける。



 ポーランドの栄光

 これまで2回のシュツットガルトは、試合後、フインドという小さなホテルに泊まり、そこから日本へ送稿したが、この日はポーランドーイタリア戦(開始16時)の後、デュッセルドルフへ飛んでデュッセルドルフのホテルから日本へ送稿することにしていた。ゲーム終了時間から計算して、シュツットガルト空港20時15分の最終便に間に合うと見ていた。ゲームについては既に別の項でも触れた。ポーランドがシャルマッフの相手の前をかっさらうヘディング、デイナの胸のすくロング・シュートで2点を上げ、イタリアを1点に押さえた。

 そして、このグループの別の試合でアルゼンチンがハイチを4-1で破り得失点差でイタリアは落ちた。

 ミラノからローマから来ていたイタリア人の大観衆は、旗をたたみ、声もなく引き上げていった。その人の群をかき分けて進むパスの中で、私は飛行機の時間を気にしてイライラし始めていた。「全く、きつい予定を組んだものだ」といささか自分に呆れながらも、そんな、忙しい目をしながら、ポーランドとイタリアのゲーム。ポーランド人の喜びとイタリア人の悲しみを記事として、その日の内に送稿する時代が、日本にもやって来たことに、奇妙な興奮を覚えるのだった。

(サッカーマガジン 1975年8月10日号)

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