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デュッセルとゲルゼンキルヘン ドイツ人とオランダ人の興奮

 ニーダーザクセンの娘達

 去る7月22日、西ドイツのニーダーザクセン州のスポーツ少年団の一行と神戸市の神戸高校同窓会館で会食した。ニーダーザクセン州というのは、西ドイツの北部地方で74年ワールドカップの会場だったハノーバーがその州都にあたる。それはともかく、20人の内15人が女性の一行は、スポーツ好きの娘さんの集団らしく、健康で、清潔で、生き生きしていた。別れ際に、同じテーブルだった7人の娘さん達一人一人が挨拶に来て、皆が自分の市のパンフレットや紋章やラベルをくれた。あるお嬢さんは、自分はウイルヘム・スハーフェン市から来たが、この場へは何も持ってきていないので、これを記念にと「ライヒスターク(帝国議会)の歴史」の英文小冊子を渡すのだった。市や国を代表して来ているのだから、何とか自分たちの国や市のことを知らせたい。そしてまた、どうかして異邦人を喜ばせたい──と言う気持ちが、彼女たちの言葉や身振りに表れていた。



 近郊のドライブ

 さて74年6月24日のデュッセルドルフ。前夜シュツットガルトから飛んできた私は、この日、午前中をゆっくり過ごし、午後2時半に迎えに来くれたシュロッツ氏(元FCケルンの監督)の車で、ドライブに連れていって貰った。

 市内よりも郊外をと言う私の希望に添って、ネアンデルタール(6万年前の原人の器発見されたところ)に始まって、地上105メートルに掛かる鉄道橋「ミュングスター・ブリュッケ」、1900年からモノレールのあるブッバータール市、それにブッバー渓谷を見下ろすブッバー城。刃物のゾーリンゲン市、最後にライン河とベンラート宮殿。一次リーグの間、ゲームとスポーツ施設を訪ねるのにかまけて、いわゆる「観光」のチャンスの無かった私には、この半日は何よりだった。



 ヒーターは自分達だけ

 ブッバー(Wupper)川の上に掛かるモノレールは、今の私たちには珍しくなくても、70余年前からあったということになると、この人達の機械技術の高さに敬服する他はない。機械産業の盛んな人口41万のブッバータール市にも、ブンデスリーガ1部のチーム(今年は最下位で2部落ちとか・・・)ブッバータールSVがある。その本拠のグラウンドは、動物園に近いために「スタジオン・アム・ツォー」と呼ばれている。自転車コースの中にフィールドがあり、収容力は32,500。奇妙なのはコーチや控え選手の座るベンチ。冬の寒さに備えてベンチの下にヒーターが通っているが、これがなんと、ホームチーム用だけで、相手方のチームのベンチにヒーターは無かった。客に親切なドイツ人も、サッカーのゲームでは別と見える。

 6月26日は、いよいよ二次リーグが開始。宿のリンデン・ホフから中央駅まで歩き、鉄道でゲルゼンキルヘンへ・・・。2次リーグでは西ドイツの試合を主に見るつもりで、3日ともゲルゼンキルヘン市のバルク・スタジアムの入場券を申し込んでいた。ここでは6月26日に3組1位(オランダ)対4組2位(アルゼンチン)があり、30日は1組1位(東ドイツ)対3組1位(オランダ)、7月3日は1組1位(東ドイツ)対4組2位(アルゼンチン)が行われる。

 西ドイツが1組1位となると予想していたのが外れて2位、したがって西ドイツは、6月26日にデュッセルドルフで2組1位(ユーゴ)と、30日には同市で3組2位(スウェーデン)と、そして7月3日にはフランクフルトで4組1位(ポーランド)と対戦することになった。ちょっと予定が狂ってしまったが、この日は初めの予定通り生のクライフが目当てだった。



 筋金の通った西ドイツ

 ゲルゼンキルヘン市はデュッセルから46キロ、人口35万。会場のバルク・スタジアムはブンデスリーガ1部のシャルケ04のホーム。デュッセルからプレスバスも出ている筈だが、鉄道で行くのもまた楽しい。鈍行で約1時間、雨が降ったり止んだりする中を、駅前から徒歩15分のホテル・マルティムへ。ここのプレスルームで、午後4時から西ドイツ対ユーゴのテレビ観戦。その後バスでスタジアムへ・・・。テレビの画面での西ドイツの攻撃は、一次リーグの不評を跳ね飛ばす、見事な物だった。対東ドイツの敗戦を機会にチームは立ち直り、筋金が入っていた。それぞれのタレントが、チームの中での役割をしっかり掴み、自分の個性の生かし方をハッキリと知ったようだった。



 オランダはワールドカップに勝つ

 テレビの西ドイツに増して、生のクライフは素晴らしかった。一つ一つのプレーに人を引きつけ、興奮させる彼の才能の豊かさに、目を見張る思いだった。ゲームの中頃から雷雨が激しくなったが、満員の観衆のほぼ半分を占めるオランダの人達は、ずぶ濡れになりながら「オランダはワールドカップに勝つ」を歌い続けた。その大合唱を背にアルゼンチンの守りをズタズタに切り裂く、オランダの攻撃の面白さは格別だった。「オランダは・・・」の歌声はゲルゼンキルヘンの駅でもデュッセルの駅でも聞いた。

 そのデュッセルドルフへ帰ってきたのが午後10時半。ホテルのフロントに聞くと、午後4時の西ドイツの試合のテレビが始まる直前から、殆どの店は閉まり、市中の人影は消えたという。

(サッカーマガジン 1975年9月10日号)

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