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ベッケンバウアーとクライフ

 さあミュンヘンへ

 74年ワールドカップも、7月3日の二次リーグ最終戦で西ドイツとオランダが決勝進出、3位決定はポーランドとブラジルと決まった(前号参照)。6月13日に始まった大会は、ここに申し分ない顔合わせによるフィナーレを迎えて、この上ない盛り上がりを見せながら、同時に終末への慌ただしい動きに入って行く。

 フランクフルトのホテル。ヘッシッシャー・ホフで荷物の整理を済ませた私は、7月4日13時16分中央駅発のインターシティ107号に乗る。前日、デュッセルからフランクフルトへ乗ってきたのと同じIC特急だ。特急券10マルク、一等運賃77マルクだが、プレス関係者は割引制度があって、運賃は30マルクで済む。混雑を心配して、前日、指定席を買いに行ったら、指定席は2日前発売だとあっさり断られたが、乗り込んでみると、座席は余裕があった。



 旅窓の楽しみ

 フランクフルト・アム・マインからミュンヘンへは飛行機なら1時間、それを4時間掛かる鉄道にしたのは、ライン川の支流マイン河からドナウ川の支流イザール河(ミュンヘン以内を貫流する)まで、ちょっと大袈裟に言えばライン流域からドナウ流域への景観の変化を見たかったからだった。

 IC107号はフランクフルトを出るとしばらく東進してオッフェンバッハに至り、途中、スベッサルトの山地を横断してから再びマイン河に併走し、約1時間20分でビュルツブルクへ。ロマンティック街道の起点として有名な古都ビュルッツブルクから列車は南東に進み、インゴルシュタットでドナウ川を渡る・・・。

 充分に旅窓を楽しもうとのプランは、同じ列車に乗り合わせた日本の記者達と食堂車へ出かけた辺りから狂ってきた。一次リーグ、二次リーグで見たレベルの高いプレー、そして、日本がそれに追い付くためには・・・、などと語り始めればもはや景色はどこかへ行ってしまう。



 二つのゲームメーク

 話し合っている内に、フランツ・ベッケンバウアーとヨハン・クライフに及ぶ。2人とも偉大なゲームメーカーだが、この大会で見た限りでは、ちょっとタイプが違うように思う。どちらもゲームを自分の意志通りに作り、他のプレーヤーの力を発揮させることは実に上手い。

 しかし、その中でもクライフは、まず自分がボールに触ること、自分が動くことからスタートする。ベッケンバウアーは、まず味方を最大限に働かせることから始まる。守りの際、相手のラストパスやシュートがベッケンバウアーに防がれるのは、味方が相手のボールを奪うために徹底的に動くためだ。

 フォクツがガドーハに抜かれても、賢明に食い下がることによって、ガドーハのコースが自然に決まってしまう。そこをベッケンバウアーが抑える。仲間にかなりのムリをさせることによって、ピンチの際にも、自分がいつも一番いい位置をカバーし、ボールを取ったときは、いつも余裕を持ってゲームを作るやり方だ。

 クライフはそうではない。まず自分が働く。

 そして、この2人を見、2人を思うと、私は日本の優れた2人の先輩、川本泰三さんと二宮洋一さんのイメージがダブってくる。川本さんは昭和11年のベルリン・オリンピックのときのCF、当時のドイツの批評家から、欧州レベルのプレーヤーと評された。二宮さんは、川本さんより一回り下で、ベルリンへは行っていない。昭和12年〜15年の慶応の黄金時代のCFだった。



 川本さんと二宮さん

 川本さんはまたドリブルの名手でもあったが、人を働かせるのが上手く、仲間にめいっぱい頑張らせておいて、その間に良い位置を占めてシュートを決めた。私より13歳年長で、その最盛期は残念ながら子供であった私は殆ど見ていないが、戦後にその一端を知った。

 早稲田のときも、川本さんは自分がシュートするために、ウイングは何処まで持ち込んで、自分の何処へ渡せとか、仲間に、そこで持ちこたえろ、などと要求し、それを仲間が実行したという。戦後も、そういう要求を満たすのに、私の兄(賀川太郎)や岩谷君(故人)達が苦労し、また上達していったの知っている。

 二宮さんは、私の中学校の7年上。絶頂の頃から戦後まで、そのプレーを間近に見た。駿足で、急角度のターンが利き、シュートは迫力満点、ヘディングは抜群だった。慶応卒業の年の朝日招待(対関大)はまったく二宮さんのゲームだった。ミッドフィールドでボールに触り、攻撃の起点となり、リターンパスを受けてドリブルし、シュートへ持っていく。ときには、タッチライン沿いにドリブルし、ゴール前の仲間に突っ込ませた。

 戦後しばらく、二宮さんは慶応BRBを率い、川本さんは大阪クラブを作って、ともに天皇杯を争った。

 ベッケンバウアーのピンチに動じぬ悠容たるプレーと人を働かせる巧さに、川本さんを、クライフの俊敏とボールに触れる度数の多いことに二宮さんを──その回想は食堂車から、自分の席に戻っても続いた。

 列車はいつの間にかインゴルシュタットを過ぎた。ラインからドナウへの旅は、中部ドイツから南ドイツへの景観を楽しむのではなく、決勝を争う2人の大スター、フランツとヨハンから、川本、二宮両氏への回想となった。

 ミュンヘン着は午後5時過ぎ、高度520メートルのこの町の中央駅のヒヤリとした空気が好ましかった。

(サッカーマガジン 1975年10月25日号)

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