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決戦まで二日、ホームでくつろぐ西ドイツ・チーム

 市民球団のカープ

 広島カープの優勝が近づいて、広島市いや県全体が、浮き浮きしているという。企業対抗の色合いの濃いプロ野球の中で地方都市の市民に根を下ろした球団であるカープの今度の「優勝」(書いている時点では中日にも望みはあるが)によって、地域と団体競技との関連について考える人が増えるだろう。いずれにしてもスポーツ好きの広島市民にとって、今年の秋は申し分ない祭りのような日々であろう。



 ペンションの家族サービス

 さて4年に一度のサッカーの世界の祭りを追う、私の「ワールドカップの旅」もミュンヘンまでやって来た。

 74年7月5日は快晴。日の長いヨーロッパの夏の明るさが、窓のプラインドを上げると眩しかった。

 前日(7月4日)にこの家のマダムが言っていたように、朝食はまさに「ビッグ・ブレックファースト」だった。パンにバター、各種ジャムと蜂蜜、チーズにハム、ソーセージ、卵(ボイルするか目玉焼きか)それにグレープフルーツ、コーヒーまたは紅茶。

 今度の旅行のホテルの宿泊料金(朝食付き)は35マルクから77マルク、ざっと4000円から8500円まで、いろいろあった。バスかシャワーが付くと50マルク以上になるようで、一番安かったのはシュツットガルトのホテル・フィンドで、文字通り屋根裏ルームの天井が屋根の傾斜そのままで、天窓が付いていた。ミュンヘンのこのペンション「カロリーネンホフ」は50マルク、残念なことにバス付きではないが(仕事のための滞在にはバス付きの部屋が欲しかったが)、マダムご自慢の朝食と家庭的サービスが嬉しかった。

 市内のプレスセンターに当てられているベンタホテルは旧市街のイザール門から東へ進み、イザール河を渡ってちょっと坂を上がった右側にある。市の案内によると、河に架かる橋とベネディクト派の修道院を中心に、町は発達したとある。ミュンヘンとは高地ドイツ語のミュンヘン(小坊主)から来ていて、今も市の紋章は坊さんをかたどっている。



 ジョッキ片手にインタビュー

 ホテルへ着いたら、ちょうどシェーン監督の記者会見に行くバスが出るという。インタビューは、初めグリューンバルトの西ドイツチームの宿舎だととのことだったが、結局、宿舎のスポーツシューレへはバスは入らず、すぐ近くのビヤレストランへ行く。2台のバスで降りた記者やカメラマンでレストランが超満員となると、今度は場所を、そのレストランの庭に変更する。みんながぶつぶつ言いながらも、ぞろぞろと庭へ。日本のようにすぐ血相を変えないところが面白い。

 監督は涼しいフジ棚?の下で、木陰に入れない記者やカメラマン連中はシャツを脱ぐ者もある。サービスにはジョッキがどんどん運ばれてくるところは、やはりビールの本場。時間の関係もあって、通訳の言葉をどれだけにするかをまず相談。賛成多数で、英語とフランス語に決まる。フランス語通訳のホステスが詰まるたびに、フランス人記者がそれを助けるというのんびりムード。シェーン監督は「66年のロンドン大会の決勝に比べると、今度はホーム・グラウンドでのゲームだから、それだけ責任は重いとは言いながらも、やはり気分的には楽だ」とホームの利を強調し、72年のヨーロッパ選手権当時との比較では「今度の方がファイターが多い」と答えた。西ドイツ代表が特定の商品マークを付けているが、それについての個人報酬はあるのか、との問いには「ノー」、決勝のメンバーは「当日に分かります」だった。インタビューが済むとシェーン監督は、別のテーブルでイングランドのラムゼーさんとテレビ用の対談をした。



 オー・マイヤー

 グリューンバルトは直訳すれば「緑の森」。ミュンヘン市の南部にある高級住宅地で、大通りに面してベッケンバウアーの広大な邸宅もある。帰りのバスの窓から見ると、ベッケンバウアー邸の周囲にずらりと武装警官が配置されていた。この日彼の屋敷に招待された、フォクツ達代表選手の警備のためだった。

 カロリーネンホフへ戻ると、ちょうどマダム達は休憩時間、プールサイドで日光浴をしていた。どんなに忙しくても、午後の2時間はきっちり休み、夏は水浴と日光浴をするという。プールでボールを投げ合う夫人達につられて、転がったボールをポンと蹴って渡したら、マダムは胸で受けて「オー・ゼップ・マイヤー」と叫んだ。


 夜、町のそこここでオランダの若者達が、例によってビールで気勢を上げていたが、昼とは変わる夜気の中で、彼らの軽装が何となく場違いに見えた。保守的なカソリックの町ミュンヘンは、オランダ人にとっては、いささか縁の薄い地と言える。

 一次リーグ、二次リーグでクライフのチームが猛威を振るったのは、北ドイツやルール地方、つまりオランダと隣り合わせの地帯だった。3日夜にミュンヘンへ移った西ドイツチームと、未だにミュンスター(北ドイツ)のヒルトラップを動こうとしない両チームの気持ちを考えるのが、とても面白かった。その心理の影響は2日後に出ることになっていた。


(サッカーマガジン 1975年11月25日号)

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