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ミュンヘンの不安と歓喜 タフな男のタフなゲーム

 やっぱりミュラー

 10月第4週に関西で放映されたバイエルン・ミュンヘン対リーズ・ユナイテッドの欧州カップの決勝は、クラブ・チームのタイトル・マッチの雰囲気が出て、とても面白かった。リーズ・ファンが暴れるというおまけが付いて、後に尾を引く問題となったが、それはさて置き感心したのは、バイエルンの2点目、右からのグラウンダーのセンタリングを、中央やや左より走るミュラーが、相手バックスの背後から、ゴール前を右斜めに駆け抜けて、ゴールキーパーの鼻先でパスをかっさらって、ダイレクト・シュートを決めたシーンだった。一旦相手バックの視野から隠れ、ゴール前を空けておいて、最後にそこへ走り込んで決めたのは、「やっぱり、ミュラー」と思わせる巧さだった。そして、彼のゴールすぐ側から決める「リトル・ゴール」に1年半前のワールドカップの決勝となった得点を思い起こすのだった。



 ミュンヘンはそわそわ

 74年7月7日、ミュンヘンは朝からそわそわしていた。ホテル・カロリーネンホフでの遅い朝食を済ませてからタクシーを呼んでもらう。西ドイツではタクシーは大抵たまり場にいて、流しを捕まえることは殆どない。門の所でタクシーを待つ間に、主人が出てきて聞く。

「ミスター・賀川、どちらが勝つと思う」

「ドイツだろう」

「本当に、そう思うか」

「アイ・ホープ・ソウ」

 彼の半ズボン、サスペンダー、ストッキング、口髭を生やしたバイエルン人を自負する主人は、私の手を強く握った。

 タクシーに乗ると運転手が聞く。
「どちらが勝つと思いますか」

 私の答えはホテルの時と変わらない。彼は言う。
「たかが遊びのサッカーじゃないかと思うでしょうが、私たちにとってサッカーは大きなエモーション(感情)の問題です。72年にイングランドに勝った(欧州選手権)時、ある英国人は『サッカーは負けたが、戦争は我々が勝った』と言ったそうですが、その気持ちは、私たちにもあります。54年に優勝したとき、戦争で負けた我々が、どんなに嬉しかったか、想像できますか。」英語の上手な、理論派運転手との会話は楽しかった。彼は、私が大戦中、特別攻撃隊にいたことを知ると、スタジアムの前で降りるときに、ドアを開け、恭しく敬礼した。

 スタジアムのプレスルームも、落ち着かなかった。オランダ通信のコールマン記者はルームを行ったり来たりしていた。

 ファイナルゲームは、誠にタフな男の戦いと言えた。早々にFKで1点を取ったオランダが、何故この後もっと積極的にならなかったかは、今もって不思議だが、ドイツ人の気持ちの強さが、次第に盛り返して、同点のPKとなり、ミュラーの貴重なゴールとなった。

 タフと言うことでは、これほどタフなゲームも、また初めて見た。チーム全体が相手に負けまいとするタフな気持ち。目の前の相手に負けないぞという強い闘争心、そこから来る、一人一人の駆け引きが、タフで、しかも手が込んでいた。ドリブルでマーク相手に抜かれると、この次は、ファウル、あるいはファウル気味のプレーで相手を悩ませた。これは、オレは易々とやられないぞ、という意志表示と見えた。若いニースケンスが追走して何のためらいもなくヘルツェンバインの足を払う。払われた方も、払った方も、知らん顔でFKからの展開に備える。そしてFKの際によい位置を占めようとするお互いの動き、体の接触もあり、手の押し合いもある。それでいて、その押し合いの直後に来たボールをきちんと処理するバランス、そのバランス感覚と筋力の強さには、ただ、唸るだけだった。



 お返しのお返し

 前半に、ミュラーが相手ゴール前でファウルした。背後から来たレイスベルヘンをミュラーが踏むような形となったものだが、この笛の直後、レイスベルヘンの負傷の程度をドクターと審判が診ているときに、ゴール前に立っているミュラーの背を、オランダのハネヘンが、ポンと付いた。するとミュラーはいきなりパターンと朽木を倒すように倒れてしまう。何事かと駆け寄るレフェリーに、オベラーツがアピールする。

 主審は線審に模様を聞いて、結局、ハネヘンに黄色カードを出した。ミュラーの(レイスベルヘンへの)反則に対するハネヘンの報酬(それもそうひどいものではないが)に対して、ミュラーがひっくり返る事によって、また仕返しをした、という形になる。

 一つ一つのプレー(反則を含めて)のやり取りに、相手に絶対に負けないぞ、という気持ちの強さには、ただ恐れ入るばかりだった。それが、手ひどい反則の応酬にならぬところが、テーラー主審の統制と、両チームのレベルの高い技術と節度であった。

 ゲームの終了のホイッスルで、ドイツ人の不安は喜びに変わる。カップの授与と、慌ただしく事は過ぎ、スタジアムから市の中心部へ向かう。私たちのプレス・バス最終便にも、町を歩く人達は、手を振って喜びを分かち合っていた。タフなゲームにいささか疲れて、ホテルへ帰ると、小さな食堂は既に乾杯の用意が出来ていた。


(サッカーマガジン 1975年12月10日号)

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