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大会との辛い別れ

 出はじめた旅のトラブル

 初めのうちは何事もなかった私の旅にも、小さなミスが出はじめた。3位決定戦の日に、スタジアムのいすの上にメモと記録を入れた紙封筒を置き忘れた。気が付いたのが夜だったから、どうしようもない。翌日の決勝の前に、早くに行ったが、既にゴミと一緒に運び去られた後だった。

 9日朝、ミュンヘンを出発する時もそうだった。朝食を済ませたのが6時40分、車を飛ばして飛行場へ着いたのが7時15分。そこでホテルのカギをポケットに入れてきたことに気が付いた。乗ってきたタクシーの運転手氏に必ず届けてくれとチップを奮発した(こういうときは空港の案内係に相談すれば預かって処理してくれるそうだが)。重いバックを1つ積み込んでもらおうとしたらもうチェックの時間がないから、自分の手で機内に持ち込めと言う。急がされてバックを、グッと持ち上げた途端に腰に激しい痛み・・・。

 いつも重い荷物を持つときは、膝を曲げ、絶対に手だけで持ち上げないように心掛けているのに、急ぐ余りの失敗だった。後から考えれば、ミュンヘンで風呂に入らなかったのも、原因の一つかも知れない。お陰でフランクフルト空港に着いたときは、右足が突っ張って歩くのも難儀だった。ホテル・ヘッシッシャーホフヘ着くなり、風呂に二度入って温もったら、ようやく、動かしても痛みが無くなったが、一時はアメリカ、カナダ経由で帰るのを止めようか、とまで考えたのだった。



 大会との辛い別れ

 こんな不注意による失敗が続きだしたのは、もちろん疲れのせいもあるだろうが、むしろ、気分的なものが大きかった。大会が終わりに近づくにつれて、私の心には、この楽しい旅を惜しむ気持ちが強まっていた。

 快適なドイツの暮らし、ゲームを見て、1つのナショナル・チーム、一人のプレーヤーのプレーに感動し、そのプレーを分析してゆける喜び。それも、73年に日本へ1FCケルンを率いてきたときは、余裕たっぷりにゲームを作っていたオベラーツが、死にものぐるいで戦うレベルの中で、優れた選手の個性を見、そのよってたつところのボール扱いを眺められる。大袈裟でなく、世の中にこんな楽しみがあるのか、というほどの日々であった。

 その大会がファイナルに近づいて、私の心には、仕事を順調にやり遂げたという安堵よりも「楽しい夢」を終わらせたくない気持ちの方が強まっていたのだろう。そんな愛惜の気分が、一つ一つの行動の際の集中力を妨げたに違いない。


 「飲み物は何に致しますか。」大西洋上空での2度目の機内食を持ってスチュワーデスが回ってきた。よく寝入っていた隣席の娘さんも「また食事ですの」と言いながら、「飲み物はビール」と注文した。

 この娘さんはハンブルク生まれで南米の親類の所へ遊びに行くという。カナダで先生をしていて、そこで知り合ったフィアンセと秋にはエジンバラで結婚するという。サッカーが好きで、大会中はよくテレビを見た。クライフは素晴らしいと誉めていた。食事を済ませ、しばらくサッカーの話をした後、私はノートを出して、日記の空白を補い、ドイツ娘は本を読む。



 ヨーロッパへの取り組み

 確かに、今度の旅は申し分なかった。仕事の上でもそうだったし、サッカーを考える上でも良かった。若い内にヨーロッパを訪れたかったが、50歳で初めてやって来た(それもドイツだけだが)事も、決して悪くなかったと思う。

 若く鋭い感受性とはまた違って、50歳には50歳の目がある。サッカーに明け暮れた若い頃から、釜本君や杉山君のような優れた若い仲間を友人に持つようになった今、そして、クラブの運営や少年の指導に携わりながら、サッカー協会の内情をも分かるようになった今、いろんな積み重ねが、ドイツでの見聞に役立った。2部リーグのクラブでも70年〜80年の歴史を持つところの多いこの国のスポーツ。その背景を成す市民社会の歴史の厚味と豊かさ・・・。自分が年を取ってきただけに、あるいはまた、クラブ運営に何年か関係してきただけに強く感じるのだった。

 クライフとその集団の見事な展開を見たとき、まずオランダへ飛んで行きたかった。かつて7つの海を股に掛けて世界の通商に活躍した進取の気性が、海から国土を作った彼らの創造性が、あの新しいサッカーと、何か関係があるのだろうか──、ジャイッチのゆっくりとした、しかも巧妙なドリブルを目にして、多くのタレントを生むバルカンのスラブ国・ユーゴへ行ってみたい思いに駆られたものだ。こうした衝動を抑えながら、私は自分に言い聞かす「何しろ相手はヨーロッパ。それなりの勉強と準備をしてからだ」と。


 「間もなくアメリカが見えます」アナウンスに機内は静かなざわつきが広がった。

 中条君や牛木君を始め若い記者仲間の諸氏、野津会長や藤田理事や岡野理事、マガジンのグループ、商社の人達、シュロッツ氏・・・多くの好意に支えられた74年ワールドカップの旅を噛みしめながら私の心は、新たな未知な国、アメリカとカナダの短い旅への期待に膨らむのだった。

(サッカーマガジン 1975年12月25日号)

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