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アベランジェ会長の24年

ロビー外交の勝利



「Blatter par K.O(ブラッターがKO勝ち)」

 9日朝のレキップ紙(フランス国内の最有力スポーツ紙)は、FIFA(国際サッカー連盟)会長選挙で、ブラッター事務総長が対立候補のヨハンソンUEFA(欧州連盟)会長を破ったことを告げていた。

 世界のサッカーを統括するFIFAのトップの座に24年間もいたアベランジェ会長(写真右)が引退の意向を明らかにしてから、次期会長の決定が6月7日から8日にパリで開催される第51回総会の重要なテーマとなっていた。

 選挙の半月ぐらい前までは、ヨハンソンUEFA会長有利の説が流れていた。欧州51、アフリカ51の大票田がヨハンソン側とみられていたが、投票が近づくとブラッター有利と変わっていた。

 8日の投票でブラッターが111票、ヨハンソンが80票をとった。全票数の3分の2、128票に達しないために、2回目の投票が始まった。が、その途中でヨハンソンが「このあたりで食事にしよう」という間接的な表現ながら、これ以上は続けない意向を明らかにし、ブラッターに歩み寄り抱き合った。…とある。

 素直に敗戦を認めたヨハンソンだったが、記者会見のときは驚きを隠すことはできなかった。特に欧州では、イングランドがヨハンソン側から相手側に移ったこと、さらにフランスも同調したことが響き、アフリカではイッサ・ハヤトゥー会長がアフリカのすべての票をまとめヨハンソン側に立つはずが、ふたを開けてみれば割れていたという。

 アフリカは結局43の国が投票し、そのうち20人が、ヨーロッパも18票がブラッターに回ったのは新会長のロビー活動のうまさによるのか…。

 そうした記事を読みながら、改めて前日の8日、パリのメディア・センターのワーキングルームの壁面に写された総会の模様を思い出した。

 もともと、今度のワールドカップのスタートは、この第51回FIFAコングレスの取材から始まるはずだった。



74年の選挙公約



 24年前の西ドイツ総会で、私は初めてブラジル体育協会会長であったジョアン・アベランジェさんが会長選挙に立候補し、サー・スタンリー・ラウス会長を破ったのを見た。

 16カ国出場のワールドカップを24カ国出場に拡大し、アフリカ、アジアなどのサッカー後進地域からの大会参加枠を広げるというのが公約の一つ。もう一つは、古くて手狭になっていたチューリヒのFIFAハウスを建て替えるというもの。ことが第.3勢力の票を集めて大勝の原因となった。

 1816年(大正5年)5月8日生まれのアベランジェ会長は私より8歳年長で、日本のサッカーで言えばベルリン・オリンピック(1936年)組より少し若く、戦前戦中派の代表的CFの二宮洋一さんたちと同じ年輩。若い頃から水泳が上手でオリンピック代表選手でもあった。

 FIFAの公式の会議のときは、母国(ブラジル)のポルトガル語ではなく、フランス語の張りのあるスピーチが印象に残るが、裕福な家庭に育ちながら、父親の死によって学生時代から家庭を支える責任を負い、セールスマンから生産会社、さらに法律家、ついには運輸事業から銀行の経営にまでわたる事業家としての成功をみた。

 1970年にペレとその仲間が3度目のワールドカップ優勝を遂げたときに、アベランジェはブラジル体協(サッカー協会)の会長であり、その運営成功の自身をもとにFIFAの会長になったのだった。



莫大な遺産とチャリティー



 その積極案によって、FIFAは加盟国を飛躍的に増し、スポンサーの導入によって経済的基盤を確立した。24年の間にU-17(17歳以下)、U-20(20歳以下)、U-23(オリンピック)と女子、さらにフットサルの各世界選手権が創設され、24チームによるワールドカップは、さらに今度の大会から32に増えたのだった。

 現在FIFAには6000万ドルに及ぶ財産が残っているが、こうした金を生む事業だけでなく、世界の少年少女を不当労働から守るために「セーブ・ザ・チルドレン」運動を起こし、また世界128カ国に「SOS、チルドレン・ヴィレッジ」の組織を作り応援し続けるなど、ユニセフ(国連児童基金)と協調して世界の恵まれない子供たちを救う事業も行なうようになっている。

 24年にわたって大きな仕事をやりとげた偉大な先輩が引退する前の最後の議長ぶりを、しっかり頭に焼き付けておきたいと考えていたのだが、フランス航空のストのために、7日午後にパリ着の予定が、遅れて夜になり、取材手続きができないまま、8日は記者証の受け取りやTGVの予約などでプレスセンターの中をウロウロし、テレビ画面で眺めただけだった。

 ブラッター新会長は62歳、すでに23年間FIFAの事務局でアベランジェ前会長を補佐してきた。私たち日本の関係者は79年の第3回ワールドユースのグラウンド視察以来の長い付き合い。能吏ぶりはよく知られている。21世紀最初のワールドカップを控えた日本では、ますます、その関係を密にしなければなるまい。

(サッカーマガジン 1998年7/1号より)

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