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ツールーズとサンテグジュペリとオーストリア


「カワグチ、ナラハシ」にはじまる日本代表の場内アナウンス、そのひとりひとりに反応する大歓声と日の丸を、ツールーズの記者席で確かめることができたのは、まことに幸福でした。

 74年の大会でミュンヘンのオリンピッシェ・スタジオンを揺るがした「ドイッチェランド」の大合唱を聞いて以来、いつかワールドカップの場でのニッポン・コールを…と思い24年間、世界のサッカーの楽しさを書きつづけてきたものにとって、格別の思いがありました。

 ただし対アルゼンチンの結果は0―1、岡田監督と選手たちの願いは果たせませんでした。

 第1戦を失って苦しい立場になった日本ですが、第2、第3戦もしっかり戦ってほしいものです。



ドゥンガのゲームコントロール



 さて、フランスの98の旅の第2回は6月11日、日本の試合の三日前のツールーズ、カメルーン対オーストリアの試合前、スタンドの記者席での回想からです。
“とうとうツールーズへやってきた”とあらためて思う。収容37000人、全シートが屋根でカバーされている。わたしの席は13列の160番、ピッチに面して、中央からやや左よりだが、ピッチが近く見やすいのがいい(これは、あとで経験するのだが、どの会場の記者席も、中央でなくても見やすい角度だった)。

 前日の6月10日、パリの北、サンドゥニのスタード・ド・フランスで奇抜な楽しい開幕ショーとブラジル―スコットランドのオープニング・マッチを見た。

 ブラジルは、ロナウドのゴールもなく、彼とベベットとリバウド、ジオバンニの連係がもうひとイキだったが、セザール・サンパイオのヘディングとカフーの攻めあがりのゴールで2点を奪った。スコットランドは、コリンズのPKによる1ゴールだけ。

 両チームを通じて一番目立ったのがドゥンガの落ちついたパスプレー、ボランチの比較的フリーな位置からではあったが、早い球、うまいパスで自在に仲間を動かした。

 2点目のカフーへのロングは、ジオバンニの交代にデニウソンが入り、その柔らかいキープで、スコットランドのDFが立ち止まったときに、ボールを受けたドゥンガが、右サイドのカフーのスタートをみてゴール右ポストのスペースへ落としたもの。相手DFが足を出しても届かず、疾走してきたカフーの前に落ち、これをカフーがGKレイトンのとび出すのを見て、右足アウトでけり、レイトンの胸に当たったボールが、ボイドの体にあたってゴールインしたもの。

 Jリーグの磐田でゲームメークに習熟を重ねパスの精度を高めたドゥンガが、より高いレベルの仲間とともにみせたこの日のプレーは、彼の“棋譜”として“ドゥンガ・ストーリー”に書き添えられるものだ。

 基礎技術の積み重ねという基盤の上に、たえず高みを目ざす気持ちがあればドゥンガのレベルでも、なお進歩するという証(あかし)で、サッカーを志す、日本の若い選手たちのよい見本といえた。



サンテグジュペリの基地



 そのドゥンガとサンパイオのJリーガーの活躍に気をよくした次の日の朝、パリのシャルル・ドゴール空港11時5分発のAF(エール・フランス)7782便でツールーズへやってきた。飛行時間は1時間15分。

 フランス南部を西北に流れボルドーから大西洋へ注ぐガロンヌ河の中流、アキテーヌ盆地の中心にあるこの町は古くから地中海側と大西洋側を結ぶ交通の要所で、空からはレンガ色の家々が美しい。

 ブラニャック空港は中心部の北西6キロにあって、バスで中心部へ、鉄道の中央駅で地下鉄に乗り換え、セント・シプリエンの駅で降りると、シャトルバス(NO1)がスタジアムの近くへ運んでくれる。

 わたしがツールーズという地名を最初に知ったのは、飛行機のパイロットであり作家であったサンテグジュペリの小説から。彼が実際に飛び、郵便を運んでいた“郵便飛行”の南西への基点がツールーズだった。
“星の王子さま”などで日本でも有名な彼は、わたしより、ひとまわり以上年長で、第2次世界大戦中に志願して、対ナチス・ドイツとの戦いに参加するのだが、プロペラ機で計器も不正確だった初期のパイロットの物語は、若い頃のわたしの記憶にツールーズの名とともに焼きついていた。

 その彼の基地の町にやってくることができた。それもオーストリアの試合を見るために…。

  オーストリアといえば、サンテグジュペリの華やかだった第2次大戦前、1938年の第3回ワールドカップがフランスで行なわれたときに当時、欧州で最強といわれた代表チームを持ちながら、大会直前にオーストリアの国そのものがナチス・ドイツに併合されて、代表チームは大会に参加することはできなかった…という辛い歴史がある。
「マダム・エ・ムッシュウー」。場内アナウンスが、わたしの回想を現実にひきもどした。

 オーストリアの選手がカメルーン・チームとともに入場しスタンドの歓声を浴びた。

 98年大会には60年前の暗いカゲはなかった。

(サッカーマガジン 1998年7/8号より)

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