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天国のシュートの名人との会話




 涙ぐんだ井原が足どりの重い仲間を促すように、ゴール後ろの日本のサポーターの方へ歩きだした。記者席から見て右手のそのスタンドへ深々と頭を下げた彼に続いて中田たちも首をたれた。バックスタンドにも、そして左手のゴール後ろにも足を運ぶ彼らを見ながら、こちらも目頭が熱くなるのだった。

 1998年6月26日、リヨンのジェルラン・スタジアムでのグループHの最終戦の日本―ジャマイカは、スタンドを埋めた青いユニホームと日の丸の大声援の中で1―2の敗戦となった。

 6月14日のツールーズが日本代表のワールドカップ初登場という記念すべき日であったとすれば、第3戦のこの日は3勝3敗、1得点、4失点という厳しい記録を残す日となった。日本のサッカーの成長とともに歩んできた井原の輝かしい人生の中で、数少ない不満と失望の日であるかもしれない。

 人は栄光の日の輝きを思い出しても、苦杯をなめた日の記憶は忘れたいものだ。しかし、この日に感じたワールドカップでのもどかしさ…それを井原だけでなく、指導者たちや、プレーヤーやサポーターやメディアが頭に刻みつけることが、日本サッカーの次のステップにつながると思う。



ベルリン五輪の逆転劇



 さて、わたしの旅の第4回…ツールーズから、マルセイユに向かう6月12日の機内での、わたしの心の会話です。

「また、フランスまで見にきているのか、キミも相変わらずサッカーが好きやナ」

 窓外の雲を眺めていると、どこか頭の中で声がした。“名人”らしく不意に現れ、いつもの口調だった。ワールドカップや欧州選手権を取材に出掛けるとき、わたしはすでに去っていった先輩や仲間といっしょに試合を見る気持ちでいる。

 その気持ちが反映してなのか、その人たちの声が旅の最中にどこからか聞こえてくるのだ。
“川本さん、今度の監督はあなたの早稲田の後輩ですヨ”

 昭和10年代から戦前の黄金期に活躍し、ベルリン・オリンピック(1936年)の対スウェーデン、奇跡の逆転劇(3―2)のCF(センターフォワード)であった川本泰三さん(故人)は戦後、42歳まで日本代表でプレーした。中学生のときにそのプレーを見たことがあり、戦後はいっしょに試合もしたから、この人のシュートそのもののコントロールと、シュートの体勢へ入る見事さは、今でも覚えている。

 自分で考え、工夫し、反復練習したワザはプレーヤーの「晩年」でも、なお「格」があったが、考え方も非凡だった。あの釜本邦茂も、成長期に「消える」なとといった課題を出され、啓発されたものだ。
「それで、今度はどうや?」
“相手が強いので、やはり動くこと、組織プレーということになるでしょうね”
「サッカーでは体力は大切だよ。もともと日本のサッカーはパスのゲームみたいなもので、組織力も大切だヨ。しかし、基本はあくまでも1対1の強さだ。もちろん、相手は個人技術もある、体格も良い。といって、はじめから1対1はダメと捨ててしまうのはいけない。まあ実際、どれだけ戦えるかは別として、たとえ番狂わせで勝てたとしても、それで安心してはいけないのだ。個人の技術をもっとアップさせること、1対1に強いプレーヤーになることを選手自身が努力しなければナ」

 声はそれだけで消えてしまった。



60年前の記憶



 62年前のベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦も日本選手は精いっぱい動き、実況放送のスウェーデンのアナウンサーは「日本の方が人数が多く見える」と言い、そこにも日本選手(ヤパーナ)、ここにも日本選手(ヤパーナ)と連呼したので、そのアナウンサーは、しばらく「ヤパーナ」というニックネームがついた…という話をわたしはスウェーデンで聞いた。

 勝ちはしたが、日本選手の多くは、自分たちは個人技で劣る、1対1に弱い、ということを痛感したという。名人は、そういう説明をしないで、例によってズバッと言うだけだったが…。

 声が消えた後、しばらく考えてみた。わたし自身も出発前の大学のOB会でスピーチを頼まれ、「今度の大会で選手たちは、自分たちとこのレベルの相手との違い、特に自分の意志をどう表すかということの違いを知ることになるでしょう」…という意味の話をした。

 終わった途端に一人が「それでは負けですネ」と言うから、「選手は当然、勝つために戦います。専守防衛のような試合ぶりも、あくまで勝つ、あるいは引き分けるためです。ただし、2強のひとつにでも引き分ければ、世界は驚くでしょう」と言った。

 そんな自分の話したことが、どこかに残っていて、名人が現れたのだろうか。

 声が聞こえなくなった頃から機は下降を始めていた。左手にカマルグ地方の湿地帯が見えた。搭乗する前に、今夜泊めてもらうO氏との電話を思い出した。「今夜の食事は日本食、カマルグ米のご飯と、ミソ汁もありますヨ」

 その早い夕食の後、マルセイユでわたしはフランスと南アフリカ戦を見ることになっていた。

(サッカーマガジン 1998年7/22号より)

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