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ジャケの異邦人チームとマルセイユ

R・バッジオのパフォーマンス



「Marseille bonheur(マルセイユはハッピー)△ラ・プロバンス紙「BON VENT LES BLEU(ブルーに追い風)」△レキップ紙

 フランス代表(愛称ブルー)の第1戦の快勝を告げる見出しが、どの新聞にも生き生きと躍っていた。

 6月13日、マルセイユの朝は、昼の暑さがウソのように涼しかった。明け方にはカモメの鳴き声で起こされるという、港町の風情なのに、7階のベランダを吹きわたる風のさわやかさは、さながら信州だった。


 10日に開幕したフランス98は前日までにA、B、C、D、Eの5グループの各2試合を終わっていた。わたしは、初日にパリ北郊サンドゥニでブラジルがスコットランドを破る(A組)のを、つぎの日、ツールーズに飛んでカメルーンとオーストリアが引き分けるのを見た。

 そして12日にマルセイユにもどって、ホスト・フランスが南アフリカに完勝するのを取材した。この13日もリヨンに出かける予定だったが、関西空港を出てから、動きどおしなので、TGVに乗るのはやめて休養とメモの整理にあてることにした。

 こんどの大会は、これまでのところ、面白い試合が多い。11日のツールーズでは、カメルーンのヌジャンカが長く速いドリブルのあと、見事な内への切り返しに続くクリーンシュートでリードすると、長身のオーストリアは、タイムアップ直前のCKから同点にした。それまでGKソンゴオのうまい飛び出しで防がれていた轍(てつ)を踏まず、ソンゴオの届かないコースへ蹴ったのはさすがと言えた。

 同じ日のB組イタリア対チリも引き分け(2−2)。94年大会の悲劇の主人公、ロベルト・バッジオが、素晴らしいダイレクトパスでビエリの得点をアシストし、さらに、相手エリア内での、小さく浮かせたパスで相手のハンドを生み出して、自らそのPKを蹴った。

 ポニーテールでなく短くなった髪、口ヒゲをつけた31歳のR・バッジオの淡々として、しかも味のあるプレーに、米国大会決勝でのPK失敗の後、ハンディや苦しみを乗り越えた4年間を思った。

 ゴールを奪い合う序盤戦のなかでホストチームのゴール奪取は、大会全体を華やいだものにした。



フランスの変身



 フランスのエメ・ジャケ監督は96年欧州選手権のときに、今度のチームの骨格をほぼ組みあげていた。

 80年代のプラティニ、ジレス、ティガナ時代とは、パスワークの洗練度という点では譲るとしても、ディフェンスは強化された。ニューカレドニア出身のカランブーや92年以来のデシャンらのMF、さらにはブラン、ドゥサイイー、チュラン、リザラズたちのDF は1対1の応対の能力だけでなく、守りのセンスという点も良くなっていた。

 攻撃の中心となるジダンは、その頃完調とは言えず、ジョルカエフは意表を突くターンやパスなどの目を見晴らせるものはあったが、トップの選手がデュガリーだけで、いささか心細かった。

 第1戦の戦いぶりを見る限り、96年以来の懸案は、解け始めているようだった。

 負傷したギバルシュの交代に入ったデュガリーについては、すでに92年から見ているが、このデュガリーが持ち味どおりの働き、アンリが右に開き、ジョルカエフが左に展開することで、左のリザラズ、右のチュランという持ち味の違うウイングFBによって攻めの厚みも出た。

 そのラインアップを見ての感嘆は長身がずらりと並ぶこと、第1戦に出場した14人のうち、187センチ以上は4人。184〜186センチが4人、181〜183センチが3人、180センチ以下は、リザラズ(169センチ)、デシャン(174センチ)、ジョルカエフ(179センチ)の3人だけだった。

 エメ・ジャケは、イマジネーションと技術を重視するフランス・サッカーの本流、ボルドーの監督時代に来日した(1985年)とき、わたしに「日本はドイツのサッカーに倣っているようだが、体力に優れた彼らのやり方は、日本人に向いていないと思う。われわれフランス人は、ドイツのサッカーを尊敬はしているが、そのマネをしようとは思わない。自分たちに適したスタイルを作っている」と語った。

 こんどの代表チームは、そうした彼の方針に沿った、攻撃的で技術的で、優勝を狙えるチームということになるのだろうが、フランス的なものを求めた彼のもとに集まった選手のなかに“異邦人”の多いのが面白い。

 中心となるジダンはアルジェリアからやってきた夫妻の2世であり、デシャンやリザラズはビスケー湾に臨む、バスク地方の出身。ドゥサイイーはガーナ生まれ、チュランはカリブ海のグアドループ島(フランス領)の生まれ、といった具合である。

 その第1戦がマルセイユで行われたことも、あるいは幸いしたのかもしれない。

 古くからフェニキア人をはじめ多種多様の民族が訪れ、住みついた町、その市民のシンボルでもある「クラブ・オリンピック・ド・マルセイユ」(略称OM=オー・エム)のホームグラウンドのベロドロームから、イレブンは世界に自分たちのフットボールを見せたのだった。

 この次の試合、サンドゥニでは彼らは何を見せてくれるだろうか。

(サッカーマガジン 1998年8/12号より)

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