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1966年イングランドW杯「王座から滑り落ちたブラジル」

 1966年のワールドカップは、FA(フットボール・アソシエーション)創立100周年を記念して、イングランドで開催された。
 サッカーの母国のメッカとして1923年に作られた、10万人収容のウェンブリー・スタジアムは屋根つきとなり、スタンド上部のポールにははためく参加国16の国旗の中には、英国と国交のない北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のフラッグも誇らしげにはためいていた。
 この大会はイングランドの初優勝と北朝鮮のベスト8進出が華やかな話題となり、ブラジルの敗退とペレの負傷がファンを悲しませた。
 1958年の輝かしいメンバーから7人が去り、GKジウマール、DFジャウマ・サントス、FWガリンシャ、ペレの4人だけが残っていた。
 ペレは25歳、この年2月にローズマリーと結婚し、ヨーロッパへ新婚旅行した。サッカーの母国イングランドのウェンブリー競技場は、彼の新しい人生の誇りとなるはずだったのだが・・・。
 リバプールとマンチェスターの両都市を会場とする1次リーグ第3組の第3戦(7月12日)。対ブルガリア戦の前半14分、ペレは素晴らしい右足FKを決めて先制した。7月11日、ウェンブリーでの開幕試合となったイングランドーウルグアイが0-0だったから、66年W杯の最初のゴールは、このペレのFKだった。
 後半にガリンシャがまたFKを決めて2-0で勝ったが、このチームは、W杯にでるたびにファンの心をワクワクさせた、あのブラジルの姿からは遠いように見えた。しかもペレは、ツェチェフの厳しいタックルで傷つき、第2戦を休まなくてはならなくなった。
 3日後の7月15日、会場は第1戦と同じグディンス・パーク競技場だったが、イングランド特有の雨で、フィールドは滑りやすくなっていた。相手のハンガリーは、フロリアン・アルバートと、2年前の東京五輪得点王ベネが活躍した。
 リードされたブラジルは、ペレに代わって出場したトスタンが同点ゴールを決めたが、アルバートとベネの攻撃からファルカスに決められて1-2。さらにPKで1点を奪われ、1-3と完敗してしまった。
 1954年6月27日、スイスでのW杯準々決勝でハンガリーに2-4で敗れてから、ブラジルは12年間、2度のW杯合計12試合と66年の1試合、計13試合に勝ち続けていた。 ついに訪れた敗戦の日、相手はまたもハンガリーだった。
 第3戦の対ポルトガル戦(7月17日)を前に、フェオラ監督は選手を9人も入れ替え、背水の陣を敷いた。ペレは復帰したが、ベストの状態からは程遠かった。
 ポルトガルはブラックパンサー(黒豹)のニックネームを持つエウゼビオの突破からチャンスを作り、GKマンガが彼のクロスをパンチミスしたところを、シモンエスが頭で決めて1-0。続いてクローナのFKを、長身トレースが頭で流し、このボールにエウゼビオが飛び込んで2-0とした。
 そしてマランエスの悪質なファウルでペレは倒され、抱き抱えられながら退場。ブラジルの望みは消えた。この後、ポルトガルはエウゼビオがさらに1ゴールを追加して3-0。ブラジルは1次リーグ1勝2敗という信じられないような成績で、イングランドを去った。
 この大会は守備的な戦術が幅を利かせ、また、激しいぶつかり合いからレフェリーに対する南米側の不信が高じ、南米対欧州の感情的な対立も生んだ。だが、最も印象的だったのは、圧倒的な強さを誇っていたブラジルといえども、世代の交代期を誤れば王者から転落することを、身をもって示したことだった。

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