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クロアチア戦を前に第2戦の重要さを思う




“いよいよグループリーグの第2戦だ”…と動き出した列車の中で新聞を広げながら思う。

 6月20日、アンジェ駅10時25分発のTGV8809は、ナントへ向かってスピードを上げ始めていた。



82年の西ドイツ



 6月14日の第1戦でアルゼンチンに0―1で敗れた日本にとって、決勝トーナメントへの希望をつなぐクロアチア戦は、ナントのラ・ボージョワール・スタジアムで午後2時30分から始まることになっていた。

 4チームの総当たり(ラウンド・ロビン)では、もちろんどの試合も大切だが、そのチームの第2ラウンド進出は第2戦でほぼ決まる。

 この大会でも、すでにA組からD組までの4グループが第2戦を終わり、Aではブラジル、Cではフランス、Dではナイジェリアが2勝して足場を確実にし、第1戦をチリと2―2で引き分けたイタリアも、第2戦の対カメルーンを3―0で勝って優位に立っている。

 ナイジェリアと同じD組で前評判の高かったスペインが、第1戦は2−3でナイジェリアに敗れ、19日の対パラグアイは、GKチラベルトと彼の仲間の堅い守りを崩せずに0―0で引き分けてしまった。チラベルトたちにとっては、第1戦に続いての引き分けで勝ち点が2ポイントとなって望みを残したが、スペインにとっては、この試合は“勝っておかなければならない”重大なものだった。

 1982年のスペイン大会で、1次リーグの第1戦でアルジェリアに1―2で西ドイツが敗れ、大番狂わせと驚かせたが、第2戦で西ドイツはチリを4―1で破り、ようやく望みをつないだ記憶は新しい。

 勝つだけでなく(当時は1勝が2ポイント、引き分けは1ポイント)、同ポイントになったときの得失点差を考えて、攻撃また攻撃を繰り返した西ドイツのルムメニゲたちのプレーは、彼らの“ここ一番の強さ”と第2戦の重要さを知る、ドイツ・サッカーの経験の深さを示したものだった。ケガで体調が万全でなかったルムメニゲが終了のホイッスルの直後、ヨロヨロと歩いていた虚脱した姿は、いまも目に浮かぶのだ。



メキシコ五輪での計算、カタールの悲劇



 日本代表の歴史でも1968年のメキシコ・オリンピックのとき、グループリーグ第1戦でナイジェリアを3―1で破った後、第2戦でブラジルに0―1とリードされて苦しみながら、タイムアップ5分前に同点ゴールを決めて引き分けにしたことがあった。

 交代で投入した渡辺が、釜本がヘディングで落としたボールに合わせたシュートだったが、この引き分けによって勝ち点計算が楽になり、第3戦の対スペインには勝つのでなく引き分けを狙うことができた。

 スペインに勝ってグループ1位となると、準々決勝の相手は開催国メキシコ。それよりもフランスとの対戦の方がやりやすいとみたわけだが、もしブラジルに負けていればグループの順位争いは非常に難しいものになったハズ。1勝した後の第2戦の引き分けは、銅メダルへの道の大きなステップだった。

 93年、あのカタールの悲劇といまも語り継がれる米国ワールドカップのアジア最終予選でも、6チーム総当りリーグの第1戦でサウジと引き分けた後、最低でも引き分けておかなければならない第2戦の対イランに敗れたため、そのあと北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、韓国と2試合ともに勝たなければならず、全力を尽くして2勝したが、ここでの無理が響いて最後の対イラクをリードしながら引き分け、涙をのんだのだった。



パラグアイの成功、スペインの悲運



 トップクラスのサッカーの試合、特に国を代表するチームの試合は、現代の最高のエンターテインメントの一つに違いないが、実際にピッチに立ってプレーする選手たちには、メディアの巨大な圧力に始まる多くのプレッシャーがかかり、必ずしも“楽しい”ばかりではない。

 前日、ホテルのテレビで見たスペイン対パラグアイは、パラグアイが自分たちの試合…悪くても引き分ければいい…を貫いて、見事なディフェンスを見せたのに対して、スペインはイエロの長短のパスや両サイドからのクロスと何度もチャンスを作りながら、あるいはシュートをDFにぶつけ、あるいはチラベルトの好セーブ、そのリバウンドに突っ込みながらDFのカバーに防がれるなど、結局ゴールを奪えなかった。

 第1戦で手痛いエラーを犯したスペインのGKスビサレッタも、この試合では本来の姿を取り戻し、際どいシュートを防いでいたが、1敗のハンディは最後までチームに重くのしかかっていた。

 今度のスペインは予選の成績などから、グループリーグの組分けもシードされ、メディアは16世紀の大艦隊の名をとって“無敵艦隊(LA ARMADA INVENCIBLE)”とはやしたてたが、グアルディオラの欠場という不運もあって、いよいよ困難な状況に追い込まれた。

 日本代表は技巧と老かいを身につけたクロアチアを相手に、どんな第2戦を見せるのか…11時すぎ、ナントの駅に着くと、周辺にブルーのユニホームが群(む)れていた。

(サッカーマガジン 1998年11/4号より)

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