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小さな開催都市ランス スタジアムは66年、クラブは92年の歴史

14年前のストイコビッチ



“この調子ではランスの町を探る楽しみは、次のチャンスになる”
…料理を食べながら、ふと思う。

 6月21日夜、ランス市の郊外にあるランスホテル(LENSHOTEL)のレストランにいた。

 この日、午後2次30分開始のグループリーグFグループの第2戦ドイツ対ユーゴスラビアをフェリ・ボラール競技場で見たあと、このホテルへやってきた。

 ランスは84年の欧州選手権大会の会場だったから、わたし自身は2度、取材のためにきている。
…そう、14年前の6月13日、グループリーグ第1組のベルギー対ユーゴスラビア、6月17日同第2組の西ドイツ対ルーマニアを観戦した。前者では、ベルギーに18歳のシーフォがいて、クーレマンスやバンデルレイケンなどのベテランが彼にボールを渡すのを見て驚いたものだ。ベルギーが2―0で勝ったこの試合の後半に、ユーゴのドラガン・ストイコビッチが交代出場した。

 ドイツ対ルーマニアでは、80年欧州チャンピオンのドイツは、ルムメニゲ、フェラー、アロフスの3トップ、MFには23歳のローター・マテウスとブレーメがいた。DFラインにはフェルスター兄弟、ブリーゲル、シュティーリケといえば、80年代のファンには懐かしい名前。もちろん、82年ワールドカップで注目されたリトバルスキーもいた。そして、ルーマニアには若いゲオルゲ・ハジが顔を出していた。

 ヨーロッパの技術史の上からゆくと、この84年はフランスがプラティニ、ジレス、ティガナを中心にピークにあって、欧州の覇者となるのだが、同時に次の10年間の各国代表の中軸を送り込む、いわば豊作の年でもあったから、わたしの記憶にあるのだが、どういうわけかランスという町のことは、ほとんど覚えていない。

 町が小さくて宿泊を隣のリールのホテルにしたためかもしれないと、今回はランスのホテルを旅行社に希望しておいたことろ、名前はランスホテルでも、市中から車で30分もかかるところにあった。



小さな町の大スタジアム



 パリの北、199キロにあるランスは人口3万5000人。ワールドカップの開催都市としては、歴史上でも一番小さな町だというのが“自慢”。北方34キロに鉄道の町リール(人口17万)を控えているのをはじめ、周辺の人口を合わせると35万程度にはなるのだが、この小都市が地球上の最大のイベントであるワールドカップを開催するにあたって、フランスの10会場のなかに入ったのは、この地域のサッカーへの情熱と傾倒の歴史が物を言ってのことだ。

 イングランドでルール統一が図られFAが創立されたのが1863年、その9年後、英仏海峡に面した港町ルアーブルにクラブが生まれたのがフランスでのサッカーの起原だが、北フランスでやがて学生たちが試合をするようになり、鉱山で働く人たちにも広まる。

 1906年、ラシン・クラブ・ド・ランスが設立され、好調の炭鉱景気をバックに愛好者は増え、複合のスポーツクラブともなる。

 第1次大戦(1912年から1918年)はドイツ軍の占領下となりスポーツ活動は休止となったが、平和とともに復活。フランス・サッカーにプロフェッショナルが導入されると、ラシン・クラブ・ド・ランス(RCL)もそれを受け入れ、1934―35年から2部でプレー、プロのためのスタジアムとして1932年にフェリ・ボラール競技場を作った。1937年に1部に昇格し、ときに2部との行き来を繰り返しながら、サポーターと鉱山の企業の応援で、鉱山技師の名を冠したスタジアムは常に賑わいを見せた。

 1973年に大屋根の破損事故があり、この改修の際に鉱山会社の所有から市の所有に変わったが、名称はそのまま引き継いでいる。

 わたしが84年に訪れたときは立ち見席を合わせて、収容5万1000人だったが、今度のワールドカップのために、全部、椅子席として4万2000人となったのだった。

 そして98年はワールドカップ開催とともに97―98シーズンの一部リーグ優勝という快挙があり、66年の伝統のあるスタジアムと、92年の歴史を持つクラブは、いまや北フランスのサッカーの中心の感がある。

 町の性格や大きさ、そしてチームの強さからいけばJリーグのアントラーズに似ているのかもしれない。アントラーズはジーコという素晴らしい指導者を得てチームの強化が進んだが、それでもやはり、あの専用のスタジアムをリーグ開幕時に作り上げたことが、現在の盛況の大きな原因であるからだ。

 食事を済ませて部屋に戻って、テレビをつけるとリヨンで米国対イランが画面にあった。

 米国が優勢だったが、前半の40分にイランが、右からのクロスをエスティリがヘディングで決めてリードした。ファーの位置にいたアリ・ダエイを警戒してマークを怠ったエスティリの頭上へ見事にクロスが落下していた。

 そして80分をすぎて、イランのマハダビキアがハーフウェー・ラインからドリブルで突進し2点目を決めた。アリ・ダエイが後方からのボールを相手DFを背にして止め、高く浮いたボールをボレーのタッチで相手のライン後方へ流し込んだのだった。イランはアジアのチームで今大会の初勝利を挙げた。


(サッカーマガジン 1998年12/9号より)

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