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大会に暗い影ネオ・ナチのランスでの暴動

100メートルの記録とサッカー



 アジア大会の男子陸上競技の短距離で、日本の伊東浩司選手が100、200、400メートルリレーの3つの金メダルを取った。記録的にも世界のトップと肩を並べるところに迫るもの。日本のスポーツ界の98年10大ニュースの一番手となるはず。

 1930年代のロサンゼルス(1932年)、ベルリン(1936年)のオリンピックの頃の日本には、当時の世界記録(10秒3)を持つ吉岡隆徳(故人)がいた。世界のトップ級のランナーの出現によって、メディアが“速く走る”事に興味を持ち、世界の関心も高まったから、その頃のサッカーの選手(いまと比べると、はるかに競技人口が少なかったのに)にも、11秒前半以上の俊足がかなりいた。日本サッカーの伝説となった“ベルリンの奇跡”、強豪のスウェーデンに対する3―2の逆転勝ちの決勝ゴールは、サッカー靴で10秒8で走ったという松永行(故人)の突進から生まれた。

 U―21代表でアジア大会のベスト4を狙うという、日本協会の“奇妙”な計画は失敗したが、女子マラソンの快勝と伊東の快走で、98年の師走は華やいだものとなった。


 さて、サッカーの世界のトップの戦い…98年フランス・ワールドカップを追う私の旅は、グループリーグも3戦目に入り、各組の順位争いがいよいよ緊迫するところからです。



暴力反対のTシャツ



 Tシャツを広げると、
「ドイッチェ ファンス ゲーゲン ゲバルト(DEUTSCHE FANS GEGEN GEWALT)=ドイツのファンは暴力に反対」と大きくドイツ語で、そしてその上に、「LES SUPPORTERS ALLMNDS CONTRE LA VIOLENCE」と同じ意味のフランス語と英語がプリントされ、ドイツ・サッカー協会(DEUTSCHE FUSSBALL―BUND)の文字とマークが添えられていた。

 なるほど、これもドイツ・サッカー人のアピールの一つなのか…と思う。

 6月24日午後、私はマルセイユのスタッド・ベロドロームのプレスセンターにいた。

 前日、ここのスタジアム(スタッド)でA組首位のブラジルがノルウェーに敗れるのを見た。この日は、リヨンへ往復し、C組のフランス―デンマークを取材する事にしていたのだが、マルセイユ市の助役とのインタビューのアポが取れたというので、午前中はそれにあて、午後はプレスセンターから日本への原稿を送ることにしたのだった。


 助役のボーティ氏とのインタビューはフランス語に練達しているO氏(マルセイユ在住12年)の通訳だったのと、中近東やヨーロッパに関する出版業で、インドや中国などに詳しい氏の歴史造詣の深さや、両親がスペインからの政治亡命者であったという背景を持つ幅の広さが、言葉の端々に表れて、まことに楽しかった。

 99年には市の創設2600年を迎えるこの町が、ギリシャ人やフェニキア人によって拓かれ、フランスという“国”ができるはるか以前から地中海の港となり、異人種が往来した事。そして現在も“異邦人”が集まる(助役自身もその一人)町であり、それ故に、フランスの中でも“特種”と見られ、パリのメディアでは、マルセイユで事件があれば大きく報道する“悪いイメージ”がある事。そうした町の“市民”の求心力として、オリンピック・ド・マルセイユ、通称OM(オー・エム)がある事。それらをサッカー人の口からではなく、助役さんの話の中で聞く事ができたのは幸いだった。

 インタビューのあと、プレスセンター入口で配っていたTシャツをもらい、新聞を買って目を通す。インターナショナル・ヘラルド・トリビューンは、21日のランスでのドイツ人の暴動によって、ドイツ政界もスポーツ界も、深刻な精神的打撃を受けている事を伝えていた。

 ヘルムート・コール首相の「国の恥」、DFB(ドイツ協会)のブラウン会長の「自分の生涯で、最も暗いとき」という言葉が、それを表しているが、ユーゴスラビアとの試合を0―2の劣勢から追い付いたドイツ代表チームも、事件には大きなショックを受けた、とあった。


 今度の大会の前に、フーリガン対策は十分に練られたはずだが、14、15日にはマルセイユで騒動があり、次いでランスでは、フランスの警官が重症を負うという事件にまでなった。

 ランスの騒動は、いわゆるスキンヘッドのネオ・ナチのグループが引き起こしたもので、サッカーのフーリガンとは別種で、ワールドカップという最大の宣伝の場で“右翼”たちが自分たちの存在をアピールした…との見方も強い。EUとなり、パスポートなしで国境を往復できる陸続きの欧州では、彼らの取り締まりも、難しいというのだ。


 記事を読みながら、ボーティ助役の「98年7月13日、つまりこの大会の決勝の次の日から、日本と韓国は2002年のすべての問題を具体的にテキパキと処理してゆかなければなりません」という、われわれへの忠告を改めて思い出すのだった。


(サッカーマガジン 1999年1/20号より)

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