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1952年のジャマイカ旋風とジョン・バーンズの思い出

46年前のローデン、ウイントたち



「きょうは勝つでしょう」

「うん、アルゼンチンとも、クロアチアとも良い試合をしたが、結局勝てなかったからネ。ジャマイカには勝ってほしいと、だれもが思う。しかし、相手もきょうは勝ちたいと思っているヨ」

 配られてきたスタートリストを見ながら、こんな会話を交わす。

 6月26日、リヨン市のジェルラン競技場、スタンドを埋めた観客の大半は日本のサポーター。わたしたちのいる記者席からみて右手のゴール後ろの2階席に黄色の一群が、そしてスタンドのところどころにブルーに混じって黄色が点在…・もっとも、黄色といってもイエローカードのそれでなく、ジャマイカの人たちには金…つまりゴールドである。この国の国旗が太陽を象徴する“金色”の対角線の十字に、克服すべき困難を示す黒の三角、そして上下に希望と農作物を表す緑の三角を配したものだが、ユニホームも金と緑と黒の組み合わせで作られている。その鮮やかな黄―いや金色のユニホームを着たサポーターたちが、彼らの独特のリズムで歌い踊っていた。

 ジャマイカといえば、カリブ海に浮かぶ緑の楽園といった旅行会社のパンフレットが頭に浮かぶが、わたしは1952年、日本が大戦後に参加を許されたヘルシンキ・オリンピックでのローデン、ウイント、マッキンレーなどのランナーを思い出す。

 15世紀のコロンブスのアメリカ航路発見に続く、スペインの中南米支配はまずカリブ海から始まるが、やがて英国が乗り出し、ジャマイカは1670年から英国領となる。わたしたち熟年世代に懐かしい、エロール・フリン主演のハリウッドの海賊映画“キャプテン・キッド”などは、この両国の抗争期を背景としたものだった。

 約300年の英国統治下に、アフリカから黒人奴隷が運ばれ、サトウキビ栽培に働かされて、その数は先住のアラワク・インディアンより圧倒的に多くなり、1962年の独立国として英連邦の一員となった今、人口(249万)の9割がアフリカ系。彼らの運動能力が世界に知れるのは1948年のロンドン・オリンピック。男子400メートルでウイントが金、マッキンレーが銀メダルを取り、800メートルでもウイントが2位に入った。

 そして、次の1952年大会、彼らは再び猛威を振るい、400メートルで今度はローデンとマッキンレーが1、2位を占め、800メートルではロンドンと同じくアメリカのホイットフィールドには敗れたが、1600メートルリレーではアメリカを抑えて優勝した。4人が400 メートルを走るこのリレーで0秒1の差の優勝はヘルシンキ大会のハイライトと言えた。当時、新聞社の若いスポーツ記者であったわたしは、大会後の記録映画であらためて“ジャマイカの旋風”の走りに驚嘆したものだ。

 この伝統はいまも短距離に受け継がれ、女子のオッティらの名は日本にも知られているが、スプリントやクリケットに比べるとサッカーはこれまで評価されることは、ほとんどなかった。



ジョン・バーンズのドリブル



 もちろん、英国の影響下にあったから、ジャマイカのサッカー協会の設立は1910年(明治43年)と日本よりは古く、中央アメリカ・カリブ海大会にも1930年の第1回大会から出場している。

 ただし、この地域は欧州、南米から見るとレベルは低く、したがってオリンピックやワールドカップの枠も少ないから、世界の舞台への道は、簡単に開くことはできなかった。

 チームとしての成績は低くても、個人的にはすでにサッカーでも認められる者が現れていた。その筆頭はイングランド代表にもなったジョン・バーンズ。1984年の南米遠征で、イングランドがブラジルと対戦したとき、彼のドリブル突破によるゴールは、ブラジル人をも驚かせた。86年のメキシコ・ワールドカップの準々決勝の対アルゼンチン戦で終盤に投入されたが、バーンズの左からの突破とクロスでリネカーが1点差に詰め寄り、再びバーンズから攻めて、あわや同点という場面もあった。それまでのアルゼンチンの堅守がウソのようにバーンズのドリブルで崩されるのが、なんと不思議であったことか。

 3ヶ月前に読んだタイムズ紙の記者のレポートは、3年前にバーテンダーであったり猟師であったり、工場で働いていたり、あるいは学生であった代表…彼らのいう“レゲエ・ボーイズ”…が2年前から本物のボールを持ち靴を履き、1試合に35ポンド(5000円)の報酬を受け、キングストンのスタジアムから20分のところに合宿所(といっても部屋数は5)ができたこと。待遇改善の力になったのがシモエス監督で、ブラジル人の彼は協会と掛け合い、選手の報酬を月30万円に引き上げたこと、首相が低価格ローンの家の提供を約束するまでになったことなど、サッカーによって貧しさから一気に抜け出した代表を描きだしていた。

 かつてはビックゲームのときだけ友人から靴を借りて試合に出た若者が、豊かなヨーロッパの古くて豊かなリヨンの町のスタジアムで戦う…
…ワールドカップの不思議さと、そして、400メートルという日本人に最も難しい距離で世界を制した先輩たちの血を引く彼らに勝とうとする、井原たち日本代表への期待で、わたしの胸は次第に高まるのだった。


(サッカーマガジン 1999年2/17号より)

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