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ユーゴスラビアの敗戦、最盛期の棋譜を残せなかった不幸な俊才たち
さあ、ボルドーへ
人けのない車内は涼しいというより、冷房が効きすぎてヒヤリとしていた。
98年6月30日、マルセイユ市サン・シャルル駅を朝6時55分に出発した列車は西北へゆっくり走っていた。
ワールドカップ・フランス大会はすでに16チームによるノックアウトシステムに入り、その1回戦8試合も前日までに6試合が終わり、この日の2試合を残すだけ。
この日は遠く西北のボルドーに出掛け、ルーマニア対クロアチアを取材することになっていた。一般的なニュースバリューなら、もちろんサンテチエンヌでのアルゼンチン対イングランドだが、ボルドーという町を一度自分の目で見ておきたいという点から、こちらを選んだのだった。
ボルドーには、かつてエメ・ジャケが監督を務めた名門クラブがあり、アラン・ジレスやティガナのいたチームが来日したこともある。
わたし自身、当時サッカー・マガジンの仕事でジレスのインタビューもし、彼が自分のブドウ畑のことを楽しそうに話すのを聞いたことがある。今度は会うチャンスはないが、彼のようなプレーヤーが育った地域を見ておくのは、環境と歴史と人との関わりに関心を持つわたしには大事なこと。
それに、このマルセイユからボルドーへの620キロは、フランスの国内を北から南へ流れるローヌ河の河口流域から、南フランスを西北に貫流するガロンヌ河の流域へと入る、いわば地中海側から大西洋側へ、フランス南部を横切る旅でもある。
若い頃にソルボンヌ大学の人文地理学の泰斗、ヴィダル・ドウ・ラブラーシュの「人文地理学原理」に傾倒したこともあるだけに、鉄道沿線の景観を眺めるのを想像するだけでも、うれしくなるわたしだった。
ストイコビッチ、十八番のゴール
といっても、やはりワールドカップ取材中、2等車の22号車、73番のシートを確かめてから、まず始めたのは前日の試合の再読。モンペリエの試合のあと、もうひとつのオランダ対ユーゴスラビアは、ちょうど試合の間に移動中だったため、帰宅してからニュースで知っただけだった。残念ながら早朝の駅の英字紙にはナイトゲームの結果ではなく、レキップを見るほかはない。
6月30日付のレキップの1面は、フランス代表の写真が主だが、8面と9面に2ページを使って詳報していた。
フランス語を2ページ分読める力はまったくないけれど、その記録によると、オランダが38分にベルカンプがフランク・デブールからのロングパスを追い、相手DFミルコビッチに競り勝ってシュートを決め1―0.前半はそのまま終わったが、49分にユーゴがストイコビッチの左からのFKをコムリエノビッチがヘディングで決めて同点としたとあった。
ベルカンプは大会前のどこかの座談会でも語ったけれど、前に出てくるときの速さと強さは逸品で、これは92年の欧州選手権で見たとき以来の印象が変わることはないから、彼の特色が生きたのだろうと想像する。
ストイコビッチのFKは、ファーポスト側でヘディングしたというから、これもストイコビッチの左からのCK、FKの十八番。Jリーグでもファーポストのトレースにピタリと合わせるのに何度も感嘆したものだ。
そのストイコビッチがお膳立てしたゴールのあとにユーゴはPKを得て、絶好の追加点のチャンスだったが、ミヤトビッチがバーに当ててしまった。
そして、ロスタイムの表示が出たあと、CKから後方へ出たボールがダビッツの前に転がり、彼の強いシュートがゴール前の人垣の間を通り抜けてゴールインした。
“大接戦だったのだナ”と思う。レキップ紙お得意の両チームの配置図を眺め、その下のランプラスマンツ(交代)の項を見ると、57分にストイコビッチに代わってサビチェビッチとあり、彼の上にイエローカードの表示もあった。
ここにも戦争の被害が
33歳のストイコビッチにとってこれがワールドカップの最後の大会になるのだろうと想像する。90年のイタリア大会、25歳の彼は技巧を駆使して見事なエースぶり。アルゼンチンとの対戦では、バルカンの10番の方が、世界の10番マラドーナよりも光ったとみる人もいたほどだ。その彼と彼の仲間は92年の欧州選手権は地域予選をトップで通過しながら、ボスニアやクロアチアとの戦争によって参加資格を失い、その後も94年ワールドカップ、96年欧州選手権に参加できなかった。
92年にユーゴに次いで予選2位で繰り上げ出場したデンマークが欧州チャンピオンとなった実績をみても、全盛期から円熟期へ入っていたストイコビッチ、サビチェビッチ、ミヤトビッチ、、ユーゴピッチらを中心とするユーゴ代表が失った、92年からの4年間は誠に惜しいものだった。
彼らはそれぞれ欧州のクラブや日本で実績を残したが、ユーゴ代表としての棋譜を国際舞台で描けなかったのは、返す返すももったいないことだった。
青春のある時期を戦争のために失った戦中派の一人は、大会を去るストイコビッチたちの心を改めて思うのだった。
エアコンディションの効きすぎで、オーバーズボンをはくことにした。
(サッカーマガジン 1999年6/30号より)