賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >ペレの東京での2ゴール

ペレの東京での2ゴール

 そして代表引退の翌年、彼はサントスの一員として日本を訪れ、“これぞペレ!”というゴールを、日本のファンに披露した。
 その神技は、1972年5月26日、東京・国立競技場で生まれた。
 東京オリンピック(1964年)以来、久しくスポーツのイベントで満員になることのなかった国立劇場は、夕方から熱気に包まれた。いや、前日の練習にも、たくさんの若いファンがスタンドから、ペレとサントスのイレブンが身体を動かすのを、熱心にながめたのだった。“王様”を迎えた興奮は、サントスが入場し、日本の国旗を持って場内を走った時に爆発し、大勢の若者が、スタンドから飛び下りてイレブンを囲んだ。
 試合前半のペレは、一度ドリブルで50m突っ走ったことがあった程度で、もっぱら味方にパスを供給して、仲間を働かせていた。もちろん、なにげなく立っているようだが、彼のパスは実に正確だった。試合の流れ、すべての動きをとらえているようで、「いったい彼の目の高さは、どのあたりにあるのか」と不思議なほどでさえあった。
 サントス1点リードのままで前半は終わり、後半にはいると、相手の動きに慣れた日本のシュートも飛ぶようになり、場内は“ペレへの興奮”から“サッカーの興奮”に変わりはじめていた。
 双眼鏡でペレを追っていた私には、ペレの気持ちが昂まっているように見えた。そして74分、まずチームの2点目、すなわちペレの日本での1点目が記録された。それはペナルティエリアの外で、後方からのパスを、マーカーの山口を背にしながら受け、瞬間的にマークを外しての右足ボレーシュートだった。彼は足もとに来たショートバウンドのボールを、右足で低く抑えるのではなく、軽くタッチして胸の高さに上げた。そして後方の山口と前方の川上の二人の間を、胸でボールを押し出すようにしてスリ抜け、なお妨害してこようとする山口を左肩で押さえつけながら、ワンバウンドしたボールを見事なインステップで叩いたのだった。
 ボールを浮かせて相手をかわすのは、ペレに限らず、多くの南米プレーヤーが得意とするテクニックの一つではある。だが、シュートにもっていくための位置の選び方や、山口という日本で最も粘り強い守備をするプレーヤーと、大柄な川上の二人を相手に、その間をスリ抜けていった速さ、それに合わせたボールタッチの精妙さーどれ一つ間違っても得点にならない連続ワザを、パーフェクトにやってのけるところは、まさにペレだった。
 このゴールは、その1分後に訪れることになるスーパーゴールの導火線だったのかもしれない。今度も後方からのボールだが、やはりマーカーの山口を、1点目とは逆に左の方へ外し、次にリペロの小城をもかわしての左足ボレーシュートだった。パスを受け取ったペレは、まずボールを足で軽く浮かせて山口が取れないところへ外し、そのボールをもう一度浮かせて左へ出た。そして、バウンドしたボールを頭で突いて前に出て、その次のバウンドで上がったボールをヒザの高さでとらえる。左足インステップのボレーはニアポストぎりぎりをズバリと破った。
 スタンドから見た白いユニホームの動きは、実に速く素晴らしかったが、二人の相手を次々に浮き球で抜いてのボレーは、伝え聞く1958年W杯決勝での、ビューティフル・ゴールの系譜と見えた。試合後、ペレも「生涯最高のゴールのひとつ」と喜んだが、このシュートこそ、彼が生まれながらのストライカーである証(あかし)だった。
 シュートの体勢に入って、1回目のポイントをずらせることはできても、2回目までずらせてゴールを決める選手は、極めて希である。ペレは若かった17歳の時も、ベテランの域に達した31歳の時も、この難易度の高いシュートを成功させたことで、その才能を世界に見せたのだった。
 試合が終わっても、興奮した中学生や小学生が“ペレ”と連呼しながら、競技場の周辺を駆け回ったのは、少年たちの印象が、それだけ強かったということにほかならなかった。
関連記事:ペレのサントス引退とコスモス入り

↑ このページの先頭に戻る