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古代と現代とサッカーを思うプロヴァンキアからアキタニアへ

 コソボからユーゴスラビア軍が撤退し始め、NATO軍は空爆を停止した…と6月10日のテレビ、11日の新聞は報じている。先行きはともかく、戦闘停止という紛争解決の第1歩が踏みだされたのは、うれしいことだ。平和が戻り、ストイコビッチたちユーゴ代表が2000年の欧州選手権予選に出場できればいいのだが…。



デニムとシーザーのガリア戦記



 さて、わたしのフランス98の旅は6月30日、マルセイユからボルドーへ向かうフランス国鉄の車内。

 この日はファーストクラスの予約ができずに2等車の指定席だが、朝早いためガラガラ。620キロの長距離の運賃が355フラン(8520円=1等は522フラン)と安いのはありがたいが、冷房が効き過ぎるのが、体にこたえる。

 ニーム(NIMES)の駅で少し乗客が増える。このあたりは綿織物の産地で、ここの布地がアメリカに渡って、いわゆるジーパンのデニムといわれるようになる。DE・NIMES (ド・ニーム)…つまりニーム((産)のという表示が英語読みのデニムとなったというのが、私のマルセイユの友人O氏の解説。

 O氏は英国のマンチェスター大学の工学部を卒業し、フランス語の通訳の資格を持ち、神戸市と姉妹都市であるマルセイユとの橋渡しが仕事。若い頃にフランス料理に興味を持ち、また日本人学校の先生も務め、フランスの歴史にも食物にも風俗にもくわしい。私の取材の旅には必ず、オニギリの弁当を作ってくれる。それもマルセイユ西方、カマルグ地方でとれるカマルグ米で、日本米とよく似ている。

 出発から一時間半ばかりでモンペリエ。29日にドイツ―メキシコの試合があったから、わたしのようにマルセイユまで帰った者は別として、ここで泊まってこの日ボルドーへという記者も多い。日本の記者も乗り込んできた。

 マルセイユから西方のこのあたり、さらに北のアビニョン・オランジュまでの一帯が、いま日本でも人気の観光地のプロヴァンス地方。この名所旧跡を訪ね歩けば1ヶ月はかかるだろう。

 なにしろマルセイユは古代ローマの英雄、ジュリアス・シーザー(前102―前44)の「ガリア戦記」にマッシリアの名で登場。それより以前にギリシャ人によって造られたこの町は、すでにローマの支部となっていた。市の北方エクザン・プロヴァンス(AIX EN PROVANCE)のAIXは泉の意味で、ここがローマ属領プロヴァンキア(プロバンス)の中心地となったのは豊かな水があったから。ガリアを制圧する軍隊の駐留地には欠かせぬ飲料水になったとされている。

 ついでながらプロヴァンキアは、ガリアでは他にもあったのだが、ここのプロヴァンキア・ナルボニエンス(ナルボンヌ属州)以外は、後に独立し、ここだけがローマの直轄領として残ったために、プロヴァンキアと言えばこの地を指すことになり、それがいまのプロヴァンスに発音変化したものだという。



ルーマニアとクロアチア



 車窓の広がる平野と湖を眺めながら、はるか昔を回想するのは旅の悦びの一つだが、手元のレキップ紙の15面は、この日の2試合のラインアップのイラストがあって、わたしをサッカーに連れ戻す。

 そのルーマニアのメンバーの左サイドのMFにムンテアーヌという名があり、ドイツのケルンで働く1968年生まれだから、ハジよりは3歳若いが、30歳のベテランだ。この選手と同じ名の記者とは1974年以来の顔なじみ。南ドイツへ亡命し“自由ヨーロッパ”というラジオ放送局の仕事を続けていた。

 かつて鉄のカーテンの向こう側、チャウシェスク独裁の下に、東欧でも特異な形の“共産圏の優等生”であったルーマニアが、その独裁体制を覇したのは1990年、イタリア・ワールドカップのときだった。

 ムンテアーヌ記者もそれ以来、自由に祖国へ往来できるようになったのだが、このときの体制打倒のきっかけとなったのが、ルーマニアの西部のティミショアラでのデモからだった。テイミショアラはもともとマジャール人が多く、体制派の弾圧もまたひどかったのが、民衆の反発を買ったという。異人種がそれぞれの歴史を背景に入り交じるヨーロッパの複雑さというところだろう。

 そのルーマニアの試合の相手はクロアチア。チトー大統領のユーゴスラビア連邦共和国の時代には連邦内の6共和国の一つだったのだが、チトーの死去と、社会主義体制の崩壊のあと、91年に独立を宣言。ユーゴ軍の介入を経て、92年に国連平和維持軍の投入で停戦が実現して独立となった。

 この紛争によってユーゴが国連の制裁を受け、そのためストイコビッチたちのユーゴ代表チームは対外試合ができなくなった(前号参照)のだが、クロアチアは“おとがめなし”で96年の欧州選手権で彼らの実力を充分にアピールし、フランス・ワールドカップでも16チームに勝ち残ったのだった。

 それぞれが、ごく近い過去に社会の大変動を経験しながら、ワールドカップの大舞台で勝ち残るルーマニアとクロアチア。わたしは東欧の変革の困難とその中で生き続けるサッカーの強さを思うのだった。

 列車はツールーズに近づいていた。古代ローマ人がアキタニアと呼んだ地方、ボルドーまでの行程はどうやら半分を終えた。


(サッカーマガジン 1999年7/7号より)

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