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ボルドーとジレス、ティガナ、ジダン、リザラズ、そして木村和司


ボルドーは英国領?

「ビロン ハウ アー ユー」
 バリトン調の声と、大きな手の強い握手が懐かしかった。
 ボルドー市のパルク・レスキュールのプレスルーム。長身のブライアン・グランビルは元気そうだった。
 彼は自著「ザ・ストーリー・オブ・ザ・ワールドカップ」の日本での翻訳本の出版を喜び、そして私が仲介し、監修したことに非常に感謝していると、いつもの早口で語る。
 ワールドカップや欧州選手権でよく顔を合わせるのに、今回は開幕以来スレ違いばかりで、この6月30日になってようやく会ったのだが…。

 1931年ロンドン生まれの彼は名門パブリックスクールのチューターハウスを卒業してすぐにスポーツ記者の仕事に就いたから、年齢は私より若いが50年のキャリアを持つ“大記者”の一人だ。
 最初の仕事の舞台がイタリアだったこともあり、早くからイングランドでは数少ない“国際派”で、彼の書き物や話のなかで教えられることが多い。ロンドンタイムズの日曜版「サンデータイムズ」とワールドサッカー誌の執筆は続けていても、かつての小説、脚本、テレビ番組と多才ぶりを発揮していたころより多少は仕事は少なくなったようだ。
 ただし、いまでもイタリアのラジオ局へは週1回、コメントを電話で送っているらしい。

 彼と別れて、今夜のホテルに電話を入れて確認する。日本の旅行社が予約してくれたのは、ボルドー市から鉄道で約1時間10分、北東にある小さな町ペリグー。ホテルの名はブリストルと、英国の港町と同名。ボルドー一帯のアキテーヌ(古名はアキタニア)地方はある時期に英国領だったこともあったことを思い出し、あらためて6時間半をかけて地中海側から大西洋側へやってきたのだ、とうれしくなる(前号参照)。
 紀元前3世紀ごろ、すでに集落があったといわれるボルドーが活況を呈するのは1154年、アキテーヌの女公アリエノールがプランタジネット朝のアンリ(英語読みならヘンリー)2世と結婚してから。アンリはアンジェー公としてナント一帯を治め、同時にイングランド王でもあった(連載第18回参照)から、ボルドーは15世紀までアングロ・ガスコーニュ地域の首都となり、またイングランドへワインを大量に送り出す港となった。


117年前のクラブ創設

 こうしたイングランドとの交流はフットボールにも表れ、1872年に海峡の港、ルアーブルに初めて英国船員たちのスポーツクラブが創立されたのに続いて、ボルドーにもフットボールが持ち込まれた。初めはフランスではラグビーの方がむしろ普及し、サッカーは遅れて浸透するのだが、いまのビッグ・クラブ「ジロンダン・ド・ボルドーFC」も、そのラグビー期を入れれば創立は117年前の1881年(明治14年)。フランスで2番目に古い。

 1920年になってクラブにサッカーが正式に取り入れられ、1938年にプロ導入、第二次世界大戦後に1部に入り、1980年代に黄金期を迎えた。アラン・ジレス・ジャン・ティガナ、ティエリ・テュソーのMF、DFにはパトリック・バチストン、FWにはベルナール・ラコンブといったフランス代表を主軸としてリーグでは優勝を争っていた。
 1984年にフランスで開催された欧州選手権に彼ら5人は、プラティニやロシュトーらとともに欧州ナンバーワンに輝いた。そしてまた1985年1月、このクラブはゼロックス・スーパーカップで来日したが、当時の監督がエメ・ジャケ。このフランス大会で代表を率いているのも不思議な縁といえる。
 ジレスの時代から10年後、1996年にはボルドー・クラブはUEFAカップ準決勝でACミランを撃破してランナーズアップとなり、主力のジダン、リザラズ、デュガリーらが評価を高めたのも記憶に新しい。


60年前のワールドカップ

 その彼らの本拠地パルク・レスキュールは60年前の1938年の第3回ワールドカップのときに建設され、6月12日の準々決勝、ブラジル対チェコ(1―1)でオープン。この試合は再試合となってブラジルが2−1で勝ち、準決勝はここではなかったが3位決定戦で再びブラジルが登場。レオニダスが2得点を挙げて4−2でスウェーデンを破っている。
 収容人数は1985年の改装で4万5000(2万1000席)と大きくなったが、今大会のために立見席をなくして3万5200席にし、ピッチの外側の自転車走路を移転した。
 コンピューターの画面で、こんな資料を取り出しながら思う。フランス・サッカーのトップ技能者を作り出したここのファンにとっても、シュケルやボバンのクロアチア、ハジやポペスクのルーマニアの技巧は楽しいものになるだろうと。

 メーンスタンドの記者席に上がると、仲間の一人が今日のNHKは木村和司の解説ですと言う。自らもコントロール・キッカーであった彼の解説は楽しみの一つだが、85年にボルドーが来日したとき、彼や水沼の頑張りで日本代表が会心の勝利を演じたのを覚えている。
 日本と世界のサッカーの縁も少しずつ深くなってきたようだ。
選手たちが現れた。ルーマニアは、全員が金髪に染めていた。


(サッカーマガジン 1999年7/14号より)

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