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イギリス名のホテルでイングランドの惜敗を見る

準備不足でコパ・アメリカ



 コパ・アメリカでの日本代表の惨敗は、近頃の大きなショックだろう。わたしには1勝もできなかったことより、自分たちより力が上のチームとの新剣勝負の場へ「準備不足」「この大会は選手のテストの場」と公言しながら参加し、結果が出ると、選手の能力不足、1対1の弱さが大きく語られることが不思議でもあり、バカバカしくもある。

 監督のこの方針を日本協会が承認したのは、故意に集団訓練を怠ってチームをバラバラにして1対1の弱さをさらけ出し、選手自身にもメディアにもサポーターにも「いまの代表の無力さ」を認めさせて代表の入れ替えを促進しようというハラなのかと憶測したくなる。

 テレビ放映もあって、南米チーム同士の試合の面白さや新しい才能を日本にいて見ることはわずかなプラスだが、選手たちには、どんな経験でも考えようで、プラスに結びつけてほしいと願うばかりである。



深夜のEURO SPORTS



 さて、98年ワールドカップの旅はボルドーでのクロアチアとルーマニアの戦いを見たあと、近隣の小さな町、ペリグーのホテルでの朝の回想…です。

 小さいが明るい食堂とマダムの静かなサービスがいい感じだった。

 7月1日午前8時、フランスパン一つとジャムとバターの簡単な朝食(プチ・デュジュネ)の飲物をカフェ・オレでなくて紅茶にしたのは、ホテルの名がブリストル(英国の港町で、サッカーでは2部のブリストル・ローバーズのホームタウン)にちなんでのことだったが、狙い通り紅茶もおいしい。

 ボルドーから鉄道で1時間半のこのペリグーの町は人口3万人余り。ペリゴール地方の中心地で、近しくは古代壁画のラスコー洞窟があって観光地としても知られている。地図を見ると、そのラスコー洞窟の近くを流れるベゼール川(ドルドーニュ川)とペリグーを通るイル川とがボルドーの東のリブルヌで合流し、少し下がってガロンヌ河に入りジロンド河となって大西洋に注いでいる。そのイル川の渡河点として古代ローマ軍によって作られたのが町の起源ともいう。

 イル川に沿ってのボルドーからの鉄道や道路は、ここから北上して焼物の町リモージュを経てパリに至る。

 かつて参加国が16であった70年代までは日程に余裕があったから、こうした未知の由緒ある町では半日か1日、近辺を歩いたもの。それがまたサッカーでの新しい発見にもつながったが、24から32と拡大された大会ではそうもゆかないのが、いささか残念でもある。

 ただし、この日は深夜にアルゼンチン−イングランドのテレビを見る予想外の収穫もあったから、寝不足ながら気分は晴れやかだった。

 前日の6月30日、午後4時半開始のクロアチア−ルーマニア(1−0)を取材したあと、この日のもう一つの試合のキックオフが午後9時半なので、午後10時48分発の列車に間に合わせるため、ボルドー駅前のレストランのテレビで大一番を途中まで見て乗車、ペリグーに着いたのが午前0時18分。すでに駅前にタクシーのカゲはなく、携帯電話でホテルのフロントにタクシーの手配を頼んで、ルームに入ってテレビをつけると、EURO SUPORTSの再放送があった。すでに始まっていたが、レストランでの観戦の記憶とダブらせ、PK戦まですべて見ることができたのだった。



10分間に2PKの応酬



 そのテレビ観戦のメモを見ると、両チームの戦いぶりがよみがえってくる。

 試合はスタートからまことにエキサイティングだった。

 前半6分にバティステュータがPKで1点を先取すると、10分にシアラーが同じくPKを決めて同点とした。アルゼンチンのPKは、イングランドのGKシーマンがエリア内でシメオネを倒したことによるものだが、スローを見た感じではシーマンにとっては損な判定。シメオネがタッチしたボールは彼のコントロールの範囲を越えていたのだが、近頃はそういう配慮をレフェリーがするのかどうか。むしろ、レフェリーの配慮は試合当初にビジビシ取って、両国の選手たちのファウルをけん制するところにあったのかもしれない。などと思っていると、今度はオーウェンの突破を妨害しようとしたアジャラがトリッピングを取られる。南米人らしく実にさりげなく、ほんのわずかに触れただけだが、デンマーク人のニールセン主審は容赦なくペナルティー・スポットを指さし、アジャラに黄色を出さないのか(シーマンには出た)と訴えるインスにも、ピシャリと黄色を出して自分のコントロールに従え、と強い姿勢を見せた。

 その主審のおかげかどうか、ゲームは比較的スムーズに、まずまずフェアに進むのだが、彼の厳しい目はベッカムのほんのイタズラ程度の行為を報復と判断して、47分の退場を生み、ゲームの雰囲気をガラリと変えてしまった。

 まこと、サッカーは何が起こるか分からない。
“タクシーが来ました”

 わたしの回想はマダムの声で中断された。そう、この日はペリグー駅からボルドーを経て、マルセイユへの長い旅路が待っている。試合の反すうは列車の中で…わたしは立ち上がり、バッグを持った。


(サッカーマガジン 1999年8/4号より)

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