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ペレのサントス引退とコスモス入り

 2年後の1974年6月、ペレは西ドイツW杯の開会式に、ゲストとして参加していた。ジャイルジーニョやリベリーノはいてもペレのいないブラジルは魅力に乏しく、オランダの破壊力に勝てなかった。大会後、ペレの代表復帰を求める声が高まったが、彼はサントスからも引退することを決めた。最後の試合は、クラブとの契約期限が切れる1974年10月4日までに行うことも。
 10月2日、サントスFCのホーム・グラウンドでのサンパウロ洲リーグ、対ポンチ・ブレッタ戦は、3万5,000の観衆でいっぱいになった。
 前半20分、ペレはひざまずき、そのまま両手をあげて別れを告げた。ユニホームを脱ぎ、高くふりかざして場内を一周し、観衆は「ペレー!ペレー!」を合唱した。
 感動的な引退から9か月後、北米サッカーリーグ(NASL)のニューヨーク・コスモスが、ペレの入団を発表して世界を驚かせた。
 アメリカにプロ・サッカーを根づかせようと、北米サッカーリーグが発足したのは1968年のことだった。その2年前に開催されたイングランドでのW杯から、影響を受けたため、と言われているが、最初17チームでスタートしたリーグも、赤字のためにつぶれるチームもあった。当然、チーム数は毎年のように変わり、1973年には9チームになっていたかと思うと、翌年には15チーム、さらにその翌年には20チームになっているという有り様だった。
 そんなリーグの活性化には、“超大物”が必要と、ワーナー・コングロマリットがバックアップしているコスモスが、ペレの導入を図ったのだ。 契約金は21億円とも伝えられたが、ペレは「アメリカ合衆国にサッカーを取り戻すために」新天地に足を踏み入れた。
 1975年からの2年半、彼の名声と衰えない技巧は、米国人サッカーへの目をひらくとともに、各国の大物スターのNASL参加をも促し、リーグの人気を高めた。ペレの引退した77年には“皇帝”ベッケンバウアーがコスモスに加わり、78年のシーズンには、コスモスは最高で7万1,219人、1試合平均でも4万7,856人の観衆を、ジャイアンツ・スタジアムに集めるようになった。
 青少年への普及も急速に進み、少年サッカー人口は全米で200万人にも達した。ただし、プレーヤーの育成に時間のかかるサッカーでは、アメリカ生まれのスターの登場が遅く、また24チームまでリーグが拡大したために、各チームとも外国人プレーヤーへの依存は高かった。そのため、リーグは多くの“国粋派”アメリカ人の関心を吸引するまでには至らなかった。
 経済的に行き詰まったリーグは、1985年に廃止されるが、アメリカ・サッカー協会が1994年のW杯開催を取りつけたのは、こうしたNASLが培った下地があったためだ。

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