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釜本を肩に乗せて

 ペレは2年間にコスモスで108試合に出場し、65ゴールを挙げた。サッカーボウル(NASL)のチャンピオン・シップにも優勝した。
 1977年9月16日、コスモスの引退試合シリーズとして日本を訪れたペレとコスモスは、日本代表と戦った。この試合は、日本の釜本邦茂にとっても、代表でプレーする最後の試合だった。
 釜本とともにステージに立ち、日本のファンに別れを告げたペレは、ついにサッカーの第一線から退いた。ニューヨークでの引退式には、ボクシングのモハメド・アリをはじめ多くのスターが出席し、ブラジルからはサントスFCのイレブンも駆けつけた。完全にプレーからは身を引いたペレであっても、世界のサッカーは、まだまだ彼を必要としていた。
 引退式で彼が残した言葉は「愛(ラブ)」。人への愛、サッカーへの愛。つねに相手を思いやる彼の心が表れていたが、そんなペレの人柄は、行く先々で人の輪を作り、広がっていった。
 1984年8月25日、43歳のペレは釜本邦茂の引退試合に花を添えるために来日した。この試合は、ヤンマーディーゼルの主催で、日本リーグと日本サッカー協会が後援し、ヤンマー対日本リーグ選抜との間で行われたが、友情参加としてオベラート(西ドイツ)と、ペレが出場したのだった。
 オベラートは当時40歳。左足の芸術家といわれたテクニックは衰えておらず、ヤンマーに入って見事なロングパス、ミドルパスを駆使してチームをまとめた。
 釜本の得点は、オベラートから左へ展開し、楚輪が左から送ったクロスをシュートしたもの。ここという時にゴールを決める釜本の面目躍如といったところだが、それを引き出したのがオベラートの技術だった。ペレは後半から出場し、短いパスをオベラートとかわして彼にゴールを割らせ、また、オーバーヘッドキックを敢行して、スタンドを沸かせた。 
 ゲームが終わった後、オベラートと二人で釜本を抱き上げ、肩に乗せて長い間の彼の選手生活をねぎらったのは、相手の気持ちを思いやるペレの“愛”の表れだったのだろう。
 1992年6月の欧州選手権の時に、私はペレと会った。その時にも、彼が録画撮りの最中で、その部屋の前では、多くのカメラマンや取材関係者が待ち受けていた。50歳をすぎ、なお記者やカメラに取り囲まれるペレは、いまもマスメディアを大切にし、いつもきちんと対応する。
 コスモスのプレーヤーで来日した時も、ホテル・オークラでサインを求める子供たちを一列に並ばせ、皆にサインをする姿を見た。

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