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シベリアから始まったスウェーデンへの旅


デンマーク・ショック


 「赤に白十字のデンマークの国旗が、これ以上はないほど晴れやかだったろう」

 6月28日午後5時、日本へ向かって出発しようとするスカンジナビア航空(SAS)のSK983便の座席で思う。28日の新聞は優勝チームを迎えて市役所前をうずめた10万人のコペンハーゲン市民、デンマーク国民の喜びぶりを伝えていた。

 彼らはデンマーク代表チームには初のビックなタイトル。地域予選でユーゴに抑えられて2位となり欧州選手権出場はないものと思っていたのが代替出場、そして優勝とは…。

 そう、大会最終日の午後、いやキックオフして15分後、つまり、1992年6月26日午後8時30分までデンマークが優勝するとはほとんどの人が考えていなかったに違いない。それを、気力あふれる試合ぶり、GKシュマイケルのパーフェクトな守りと、果敢なドリブル攻撃、そして好運の2ゴールで強敵ドイツを倒した。

 2つのゴールについては、1点目のきっかけとなったブレーメへのタックルがファウル。2点目はビルフォルトが浮いたボールをコントロールするときハンドだったのを見のがしたレフェリーのミスとする声があって、試合後の記者会見でも、ドイツのフォクツ監督に、この点についての質問が出たほどだった。フォクツは「レフェリーの判定になにかいうなどとは考えていない。いずれにしてもわたしたちの攻撃が1点も取れなかったのだから勝てないわけだし、デンマークは優勝に値するチームだ」と答えてそのスポーツマンライクな態度をほめられたが…。

 84年の欧州選手権でデンマークはエルケーア、レアビー、ミカエル・ラウドルップ、モアテン・オルセンなどを世界にみせ、こんどはオランダやドイツという第一流国との対戦でブライアン・ラウドルップやボウルセンや、シュマイケルたちデンマーク育ちが勝てること、人口500万人、国土も日本の10%そこそこ(グリーンランドという広大な極北の海外領土は別にして)の小国が欧州のタイトルを取れることを証明し、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話ではなく、サッカーにもお伽話があることを示した。





スウェーデンへの思い


 「日程を伸ばしてデンマークを1日でも見てみたいのに」…そんな、わたしの未練を断ち切るようにSK機は、午後6時(予定より遅れて)コペンハーゲン空港をとび立った。

 機内のテレビで飛行ルートをみせるのがSASのサービスのひとつだが、そのルート図を見ながら、わたしは、旅のしめくくりの習慣として、手帳のメモを、スタートから眺めこれまでの一日一日を思い起こす。

 三週間前の6月7日、わたしは、やはりSAS機に乗って、シベリアを東から西へと飛んでいた。

 大阪を朝7時30分の全日空076便で出て成田についたのが8時40分。11時45分発のSK984便でコペンハーゲンへ向かっていた。欧州への飛行はたいていルフトハンザ航空(LH)を利用してきたわけだが、フランクフルトで、まずヨーロッパの香りをかぎ、ハウプトバーンホフ(中央駅)地下の新聞売場の世界中からの新聞を眺めて、そのときどきのサッカーニュースののっている新聞をさがし、取材するビックイベントの情報を読む…という便宜を失うのは痛いが、なにしろ、はじめての北欧旅行は、スカンジナビア航空で、まず、機内から、デンマークやスウェーデンの空気を知りたいと思ったからだ。

 かつて北極航路を開拓し、欧州から日本へ、南回りよりも早いということで知られたSASがいつの間にか、アンカレッジ経由という北回り便はなく、シベリア上空を通る10時15分というさらに短いルートとなった。

 もちろん、ソ連上空を飛ぶというある時期は考えられなかった事態が雪どけ≠ニともに進展したことも大きいが、この空路をどの会社もとるようになると、そのうちに、アンカレッジ空港は淋しくなるだろう。
昭和天皇の欧州旅行の往路にアメリカ大統領がアンカレッジで迎えた(アメリカの国土だから)という話は、歴史として語るときにも注釈が必要となるのかな、などと思う。



プラティニのことシュートの名人のこと



 SASは欧州選手権のナショナル・キャリアだから、当然スポンサーのひとつ。機内誌「スカノラマ(SCANORAMA)の6月号の表紙はプラティニで、フランス代表をひきいて新しい勝利に挑戦するフランス・サッカーのCZAR(ツァー)として16ページにわたって紹介され、あわせて巻末のスカンジナビア案内のところで、大会のスケジュールが掲載されていた。フランスの“王”というところにKINGやEMPERORでなくて、ロシア皇帝のツァーをもってきたところが、スカンジナビアへも手を伸ばし、モスクワまで遠征したナポレオン(になぞらえたプラティニ)に対した皮肉なのだろうか。

 機長のアナウンスで左右にアムール川が見えてくると教えてくれる。日本時間、14時6分だから離陸後3時間、大きな川が蛇行しているロシアと中国東北部(旧満州)の国境を画し黒龍江とも呼ばれた川だ。

 シベリアは、わたしには無縁だが親しい何人かにとっては捕虜(ほりょ)として長い間苦労したところだ。北朝鮮や旧満州にいた陸軍の部隊は、戦争が終わったあと日本に引き揚げることになっていたのに理由もなくシベリアへ送られ、そこの収容所にはいって強制労働させられた。わたしのサッカー観の上に強い影響をもった“シュートの名人“川本泰三さん(1914年―1985年)もイルクーツク近くの収容所で4年も過した。

 その“シュートの名人”と仲間がベルリン五輪で逆転劇を演じた相手がスウェーデン代表チーム。また、第二次世界大戦後、日本に新しいサッカーを示した最初のチームもスウェーデンからやってきた…そういう意味でもこんどの旅はちょっとしたセンチメンタル・ジャーニーだ。

 川本さんのいたイルクーツク。その近くの巨大なバイカル湖を見たかったが雲でダメ。時間をはかって、適当なところで、先輩に話しかける。“外国旅行はしたいと思わないが、いっぺん、イルクーツクのあたりはいってみたいな“と前にいっておられたでしょう。よくわからないが、たぶん、そのあたりを飛んでいるのですヨ。
「またヨーロッパへゆくのか、ヒロシもサッカー好きやな」“名人”のことだから、思い出のあるハズのイルクーツクにはふれず「ふん」というような顔をして、こんな返事がかえってくるのだろうと思った。

 日本時間の6月7日21時7分、あと2時間でセントピータースブルグだとアナウンスがある。これからヘルシンキ、ストックホルム上空を通ってコペンハーゲンにはいるという。
 ロシアの歴史上に名高いピョートル大帝が都として西欧文化を取り入れようとした町、ペテルスブルク(ピータースブルグ)がソ連となってからレニングラードとなり、今また名を旧名に戻した。第二次世界大戦中ナチスドイツ軍に包囲され、ネズミまで食べて飢えをしのいだ籠城戦のとき、ロシア軍が士気を高めに行ったのがサッカーの試合、それを空中偵察で知ったドイツ軍が彼らはまだ元気だと判断を誤ったというエピソードがある。



プラティニのことシュートの名人のこと


 コペンハーゲンからストックホルムまでは1時間、到着したのは現地時間6月7日午後7時30分だったが昼と変わらない明るさ。

 機内では、日本から持ち込んだ書類に目を通し、テレビにうつる飛行経路を見ながらシベリアへの思い出を反すうするのに忙しくて、飛行ガイドを見ていなかったのに気がついた。さあ、市内のホテルへのアクセスは?「EURO92」の案内所もないらしいのでインフォーメーションの係に、市内へのバスを聞くと、表へ出て右側といってくれる。空港内で両替したばかりの50クローネ(1クローネは約22円)を払って乗ると、30分ばかりで市のセンターにつく。そこは中央駅に隣接するバスのセンターで、おりると、すぐ近くにタクシー乗り場があって、そこから予約したホテル・アマランタンまで16クローネ。運転手は地下鉄のひと駅だがといいながら、運んでくれる。

 はじめてついた土地で、全く予備知識もなくてバスに乗ったりするもどうかと思うが、それでも、目的地への間違いなくゆけるところが、やはり社会福祉の国か…と初日からちょっとうれしくなる。(あとで、地下鉄に乗ったらエスカレータでゆったりしていてラゲッジを持ってゆけることもわかった)

 3日後、午後7時半、ラスンダ・スタジアムは、開会式の華やかなショーが緑の芝生の上、展開されていた。

 正面スタンドからみて、左右のゴール前に柱が立った。十字の柱に輪をさげ、柱のトップと横木の先端を結ぶロープにも、柱、そのものにもつりさげた二つの輪にも、草や花が巻きつけてあった。

 聞くと、夏至のお祭りのときに必ずといって(昔には)立てた柱。

 それを、両端にして、8つの人の輪がつくられ、それぞれが音楽にあわせて、踊り、傘を広げ、とじていた。

 年齢は必ずも同じではなく、身長にも差はあったが、輪をつくるすべての女性の健康的でスタイルと姿勢のいいこと。双眼鏡でのぞく顔はさすが、バーグマンやグレタ・ガルボら、大女優を生んだ国と思わせる。

 わたしのような異邦人には、もうすこし夏至の木に集中してもらったほうが、ありがたいし、テーマも理解しやすいのだが、それにしても、この国の夏に、黄色がいかによく合うことか。国旗もユニホームもこの色を使っている感覚をあらためて理解した。やがてショーは終わり、午後8時に開幕試合に出場するスウェーデンとフランスの両チームが入場した。

 夏を喜び、一年でもっとも昼の長い夏至(ことしは6月21日)を祝う北欧の人たちが、太陽への感謝を捧げる最大のイベント、ヨーロッパ・サッカー選手権のはじまり。わたしは、そこにいることを心からありがたく思うのだった。

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