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マルメ・ブルーの空の下で代替出場のデンマークに驚く
フィールドの独唱とスタンドの合唱
「ゴッド・セイブ・アワ・グレーシャス・クィーン……」
朗々たる独唱にあわせて、スタジアムの一角から歌声が湧きあがる。
キックオフの前に国家を吹奏するのは、ワールドカップやヨーロッパ選手権の恒例で、それにまたスタンドのサポーターが唱和するのも気分高揚のひとつだが、こんどの大会では、独唱者を登場させたのが新しい趣向。そのテノールほど音楽的ではなくても、英国人サポーターの声は力強く、スタンドに響く。
ついでデンマーク国歌、そのとき、あらためてスタンドを埋めた赤白の旗とシャツの多さに驚く、そして、ああ、ここはマルメなんだと納得する。
1992年6月11日、午後8時すぎ、EURO92、ヨーロッパ選手権1次リーグ第1組デンマーク対イングランドがはじまろうとしていた。
前日の開幕試合でホスト国スウェーデンがプラティニのフランスと1−1で引き分けたのを見たわたしは、この日の午前中にストックホルム空港から、マルメへ飛んだ。郊外25`のシュトルップ空港から中央駅までバス(60クローネ)。そこからタクシーでガーデンホテルへ。
マルメ市は人口25万、スウェーデンの南端部にあって、狭い海をへだててデンマークのコペンハーゲンまでフェリーで40分。したがってデンマークの人たちには、仕事が終わってから、かけつけても午後8時15分の試合に間に合う。そう、コペンハーゲン空港には各地への飛行案内のほかに、高速艇による水上ルートの案内もあった。
ストックホルムが北緯59度20分なのに対してマルメは55度36分、気のせいか空が高く青い。タクシーのドライバーに「空が青いネ」といったら、「ここは青空が自慢で、マルメ・ブルーというんです。サッカーのマルメFFのカラーもブルーですョ」という。
マルメ・クラブはスウェーデンの誇り
コペンハーゲンに近いマルメは、商業都市として古くから栄え、音楽や舞台などのエンターテイメントも発達した。サッカーのマルメ・クラブは1903年の創立で、国内リーグとカップの優勝回数はともに13回で、国内有数、1979年の欧州チャンピオンズ・カップのファイナリストになっている。最終舞台でトレバー・フランシスのいたノッティンガム・フォレスト(イングランド)に1−0で敗れてチャンピオンにはなれなかったが、セミプロのこのクラブが、1回戦でフランスのモナコ、2回戦でソ連のディナモ・キエフといった強豪を退け、準々決勝でポーランドのクラクフ、準決勝でオーストリアのFKウィーンを破っての進出だったから、マルメ市民にはエキサイティングなシーズンだったろう。
この79年の秋には、もうひとつ余禄があって、当時の世界クラブ・チャンピオンと称した、南米、欧州のチャンピオンの対決に、ノッティンガム・フォレストが出場しなかったため、2位のマルメが代わりにパラグアイのオリンピアと戦った。結果はオリンピアの2勝(1−0、1−2)だったが、これもマルメ・ブルーには忘れられない試合だった。
この年、日本で開催したワールド・ユース(マラドーナが活躍した)で、神戸を会場とした1次リーグのパラグアイにロメロといういいプレーヤーがいて、彼が、オリンピアに加わり、マルメとの試合にも出場したため、わたしにはこのトヨタ杯の前身の79年ヨーロッパ・サウスアメリカ・カップは記憶に残っている。
そのマルメ・クラブの本拠、マルメ・スタジアムの記者席に、いま座っているのだと思うと、なんとなく、うれしくなってくる。
このスタジアムは、1958年のワールドカップ開催のときにつくられ、1次リーグの1組と準々決勝の会場となった。そして、いまから34年と3日前('58年6月8日)の1組第1試合、西ドイツ対アルゼンチン戦での入場者31、156人が、スタジアムの観衆のレコード。西ドイツは'54年の優勝メンバーのフリッツ・ワルターやラーンなどが出場しており、ウーベ・ゼーラーもW杯初出場の興奮を味わったハズだ。
寂しいガスコインの不在
オールドファンの回想を断ち切るように大歓声があがって、試合がはじまり、リネカーの右への展開からイングランドが攻勢に出る。“サッカーの母国”の代表は、90年W杯ベスト4のチームからMFのプラット、トレバー・スティーブン、FWのリネカー、DFのデス・ウオーカー、S・ピアースらがいるが、ガスコインやベアズリー、DFのM・ライトなどがいないのは寂しい。長い故障のガスコインはともかく、守りに強いM・ライトや、攻撃のMF、J・バーンズを直前になって負傷で欠くことになったのは誤算だったろう。
一方のデンマークは、ほとんど知らない顔だ。
予選4組で1位になったユーゴスラビアが、連邦国家解体から、新ユーゴがクロアチアに軍隊を送りこんで戦争状態になったために、国連の制裁をうけ、スポーツ交流もダメということで、この大会に参加できなくなった。
代わりに2位のデンマークが出場となったのだが、国内のリーグのセミ・プロの選手たちはともかく、外国のクラブでフルタイム・プロで働く代表選手たちはシーズンが終わって、これから休みにはいるところ、出場決定を知ったのは、この試合まで2週間あったろうか。
わたしの記者用の入場券も「MATCH NO 02(試合番号2)YUGOSLAVIA ENGLAND(ユーゴ対イングランド)」と記載されたまま。国名訂正もできなかったのだろう。
デンマークのドリブル
試合ははじめのうちイングランドが攻め、デンマークが守る形になり、左サイドのDFピアースの突進が目立つ。左ききの彼は右CKのときもキッカーになる。
イングランドの4−4−2に対してデンマークは3−5−2のシステムだが、守りにはMFが後退が早く、一見、5人のDFのようだ。
リベロのL・オルセンは、かつてのモアテン・オルセンと同姓(親戚ではないとか)で、スタイルもどこか似ている。彼の進退のかけ引きと、それにしたがってつくる守備網は、中盤からゴールマウスまで、厚くて、一人ひとりが粘り強い。最前線のプレーヤーが相手ボールのときの守りにはいるのが早い。
記者席から見て左手側のゴールは太陽光線を受け、高いボールを見るのがむずかしく、GKシュマイケルにハンブルも出るのが気になる。全体に連係動作に、まだギゴチなさがあるのも準備不足のためか…。
そんな不安なデンマークのスタートぶりは、やがて自信に代わりはじめる。それは彼らのドリブルの能力から。5分に左サイドから攻めあがったアンデルセンをイングランドのキース・カールが止めたが、誰の目にも明らかなファウル(ホールディング)だったし、ブライアン・ラウドルップの速いドリブルは、その速さだけでなく、ターンのうまさで、相手を悩まし、困らせた。イングランドの早い展開に、ときにサイドを破られ、ゴール前にクロスが飛んでくることはあっても、そのカウンターでドリブルが効果ありとということがわかってくると選手たちは、自分たちのやり方に自信を持ち、パスもつながり、攻めあがる数もふえる。
スリリングな攻防
後半にはいると、まず5分にイングランドが右CKのチャンスがあり、デンマークにはラウドルップやボウルセンのキープから決定的なチャンスを生み出す。6分にイエンセンのシュートがはずれ、16分にはポウルセン、シベバエク、クリステンセンでゴール前にスペースをつくり、イエンセンが侵入してパスをうけてシュート。ボールはGKウッズの右手前を抜けたが、左ポスト(攻撃側からみて)にあたってリバウンド。幸運にもボールはウッズの腕の中へ。
90分戦って0―0、シュート数はイングランド23、デンマーク13。GKのセーブは2と10、コーナーキックは8と3、クロスは50と20。
1次リーグ第1組は2試合を終わり、ともに引き分け、スウェーデン、デンマークの北欧勢と、イングランド、フランスの両大国、いずれもベスト4への望みを持つことになった。
イングランドの代表得点記録の更新を期待されているリネカーは、この日不発…といっても、チーム構成からみて、彼が納得できる望みは、それほど大きくない。
両方にビューティフル・ゴールが生まれなかったのは残念だが、この日の収穫は、ブライアン・ラウドルップという異才を眺めたこと。兄ミカエル・ラウドルップは1986年メキシコW杯や、85年冬のトヨタ杯ユーベントスの劇的ゴールなどで強く印象づけられた。
彼は代表チームのメラー・ニールセン監督と意見があわずに加わっていないが、ブライアンのドリブルは、ターンのうまさはもとより、急激なスローダウンや急停止などでの相手のはずし方、同時に攻めの中での「間(ま)」のとり方のみごとさには言葉もない。
「彼を見るだけでも、きょうマルメにやってきた値うちがあった」…
マルメ・スタジアムからの帰り。広大なスポーツセンターの外へ出て、タクシーを待つ間、わたしは、新しいスターを見ることができた喜びに、なんどもラウドルップのドリブルを頭の中でくりかえしうつし出し、わたしたちよりも大柄なデンマーク人のステップやボールテクニックの巧みさを検討するのだった。