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新鋭ベルカンプに欧州の豊かさを思う


30人乗りのプロペラ機



「ノルチェーピン行きの乗客は、ハンドバゲッジはひとつだけです。飛行機が小さいので…」

 搭乗口で注意されてラゲッジをひとつ預けることになる。

 ストックホルム空港の国内線の一番はしに30人乗りのプロペラ機がとまっていた。

 1992年6月12日。前日にスウェーデン南端のマルメでイングランドとデンマークの試合を見たわたしは、この日の朝、マルメ空港発9時30分のSK(スカンジナビア航空)106便でストックホルムにつき(10時35分)、そこからJZ103便(11時25分発)でノルチェーッピンに向かう途中だった。

 ストックホルムの南西163`のこの町には、マルメから鉄道(4時間半)という便もあるが、高所から地形を見ることの好きなわたしは、つい飛行機に乗ってしまう。

 プロペラ機は離陸して上昇して水平飛行になったと思ったら、すぐまた下降し、40分でノルチェーピン空港につく。市内までのタクシーのドライバーが「この町は人口12万、スウェーデンで5番目の都市です。製紙業が盛んで印刷物もいいんですョ。そう、サッカーはノルダール兄弟が出たのですョ。こんどの代表チームのエリクソンもここの選手なんです」などと説明してくれる。



ロンドン五輪とグレ・ノ・リ



 第二次世界大戦が終わって3年、ロンドンで開催された1948年オリンピックには、戦争を引きおこしたドイツと日本は参加できず、水泳の古橋広之進(現JOC会長)が自由形の中長距離で世界記録を更新し、出場していれば優勝していたのに…と惜しまれたものだ。スウェーデンはこの大会のサッカーで優勝。チームにはCFのグンナー・ノルダール、CHがペルティル・ノルダール、RBがクヌート・ノルダールと三人の兄弟がいた。

 オーストリアを2−0、韓国を12−0で退けたスウェーデンは、破竹の勢いで準決勝でデンマークを4−2で倒し、決勝ではユーゴを3―1で破った。

 この強チームの選手はスペインやイタリアのプロに注目され、4人がイタリアへ、1人がスペインに移る。そのうちグンナー・グレン、グンナー・ノルダール、ニルス・リードホルムの三人はACミランで、その頭文字をくっつけてグレノリ(GRE NO LI)トリオと呼ばれ、大いに活躍、ACミランに1951年のリーグ優勝をもたらした。グレンとリードホルムは、1958年のスウェーデンW杯にも出場し、リードホルムは決勝の対ブラジル戦(2―5)で先制ゴールをあげている。

 グンナー・ノルダールはがっしりしていて、空中戦に強く、動きの早い特性を生かしてゴールを重ねた。ACミランでリーグ総得点225点を記録、1950年から55年までの6年間のうち5回リーグの得点王になった。ロンドン・オリンピックの準優勝で、右からのクロスがゴール前の彼より後方にきたとき、とっさに彼はゴールの中へはいり(ゴールラインの外へ出た)オフサイドポジションにあることをさけた。このクロスを後方のカールソンがヘディングして得点となったのだが、当時、珍しいシーンといわれたものだ。

 日本サッカーはロンドン大会には視察団も送れなかったが、わたしは何年か後に、京都大学に留学中のネパール王族の一人、クリシュナン・ベルマと知り合い、この大会を見た彼の話から、ノルダールの名前は親しいものになっていた。

 こんどの旅の楽しみはのひとつは、わたしたち世代に懐かしいスウェーデン・サッカーの歴史を思い起こすことだが、ノルチェーピンの到着早々、タクシーの会話からその一端にふれた。



CISの国歌の代わりに「第九」



 CIS対ドイツは午後8時15分のキックオフ。会場のイドロッツパルク(Idrotttpark)は、前述のノルダールたちのいたIFKノルチェーピンの本拠地。イドロッツはスウェーデン語のスポーツとかアスレチックの意味だから“運動公園”ということだろう。収容人員1万8千で、“スモール・イズ・ビューティフル”のこの大会でも一番小さな会場。ただし歴史は古く、1903年だから、1897年にクラブ(IFK)が創立して6年後につくられている。1958年W杯では1次リーグ第2組のフランス対パラグアイ、パラグアイ対スコットランドの2試合が行われた。EURO92のために座席を一人がけにし、ゴール後ろのスタンドを改装したとか。

 試合前の“国歌”のところでは、聞きなれたソ連国歌ではなくCIS(旧ソ連)のためにベートーベンの第九交響曲の“歓喜”の合唱部…それも吹奏でなく、合唱隊が歌う。

 それに続くドイツ国歌を聞きながら、かつて東西に分かれていたドイツが、オリンピックに統一チームを送ったとき、やはり「第九」を国歌の代わりにしたのを思い出す。歴史の皮肉というべきか…。



CISの老かいな作戦



 初めてナマでみるフォクツのドイツ代表。マテウスのいないのは寂しいが、わたしにとっての新しい顔が5人、なかでも小柄なヘスラーのドリブルとパス、大柄のエフェンベルクが目につく。どのプレーヤーも初動が早くひとつひとつのボールの奪い合いで力強い。相手ボールかな、と見えるのに、その鼻先でタッチし、自分のボールにする早さは、やっぱりドイツ…と思うと同時に、「フォクツの弟子」という感じが強い。

 動きの早いドイツに対して、CISは5人守備で厚く守る。チェルニショフとオレグ・クズネツォフ、ツベイバの3人の中央部は、フェラーとリードレの2トップをとらえ、MFの5人のうち、外側のカンチェルスキスとシャリモフは、ドイツのブレーメ、ロイターを警戒、中の3人リューティとD・クズネツォフ、コリバノフのうち、コリバノフはときにはFWラインにあがる。2トップの一人ドブロポルスキーは、ウイングのように開き(だいたい左へ)、ミハイリチェンコも開く。その穴へコリバノフが現れる。開始後15分ばかりたつと、CISの意図が少し読める。

 そのころからドイツがシュートまで持っていけるようになる。ヘスラーの右CKをリードレがヘッド(バーをこえる)。フェラーから左へ流し、ブレーメのクロスに、DFブッフバルトが合わせる(ポストの外へ)。

 圧倒的にボールを支配し攻めながらドイツは前半0−0で終わる。CISの老かいな守りをどう崩すのかと見ていると、後半開始のときにフェラーが引っこんでメラーが入った。前半中ごろに手首を痛めたのが響いたのか(のちに骨折と発表)。

 守りながらカウンターを狙うCISは、初めから外に開いて、相手をひきつけておいて中央部へ入ってくるので、中でのドリブルが効果を生む。



0−1からの起死回生のFK



 そんな攻めが62分にPKを生み出す。右へ開いたカンチェルスキスのクロスがファーポストへとんだとき、中へはいりすぎたロイターが、反転してボールに向かったが、走りこんできたドブロボルスキーにとびかかる形となった。ドブロボルスキーは左足シュートを、ひと呼吸おくらせて右下へ正確にきめた。

 ロシアの伝統的な粘っこい、深い守りと、このPKシュートに見られる各個人の“ずるさ”に、いささか“まとも”すぎるフォクツの弟子たちがしてやられるのかナ。

 そんな風に思ったとき、ドイツはロイターを引っこめてクリンスマンを投入した。調子がよくないといわれていた彼だが、やはり、トップの位置に立つ長身、金髪はサマになっている。

 ドイツの攻めは激しくなるが、それでも得点できない。第2組のもうひとつの試合でオランダがスコットランドを破っているから、ここでドイツが0−1で敗れると世界チャンピオンは、ベスト4進出に大きなハンデを負うことになる。

 時間切れ近く、クリンスマンがドリブルからFKとなる。ペナルティー・エリアすぐ外。キッカーはヘスラー。CISの7人がカベをつくり、その一番右(キッカーから見て)ハシにクリンスマンが立つ。

 わたしの席から、ヘスラーがボールへ向かうのとクリンスマンが身をかがめるのと、その上をボールが通るのが一瞬のうちに見えた。ボールはゴールの右上すみにはいっていた。

 抱き合うドイツ選手、記者も騒然、ドイツにとっての起死回生、タイムアップ直前の劇的な一発は、マテウスを欠いたドイツへの不満を忘れさせた。トマス・ヘスラーはこの夜のテレビで世界中に名が知られるだろう。

 テレビといえば、イエーテボリの試合のテレビで、わたしは新しいオランダのストライカーを見た。ファンバステンほどの長身ではないが、やや骨太(ほねぶと)にみえるベルカンプ。アヤックスにいる22歳の若手だが、あのヨハン・クライフが、5年前、17歳の彼をみて、一軍に引きあげた逸材。

 スコットランドの堅い守りを、後方からの突進でくずし、左へ流れて左足でシュートし、右で強烈なボレーをけった。

 オランダの唯一のゴールも、右のフリットからのパスを、ニアサイドのファンバステンがヘディングでうしろへ、それをライカールトがヘッドでゴール前へおとしたのをベルカンプがきめたもの。

 ゴールエリアの角へ走りこみ、倒れこむように、右足でボールを押えてゴールへ蹴りこんだ彼も、3人のミリオン・プレーヤーのアシストを決めた若者として、存在をアピールした。
「やっぱり、ヨーロッパのサッカーはおもしろい」。

 わたしはメモの最後にこう書き加えた。

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