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列車のコンパートメントで大記者グランビルと語り、プラティニ監督の悩みを思う

小説も書くジャーナリスト

 「なんども会っていますネ。覚えていますヨ」

 口ぐせの「ラブリー」を連発しながら、ブライアン・グランビルが言い、「こちらは、ボブ・トーマス、有名なフォトグラファーですヨ」と向かいの席の友人をわたしに紹介してくれる。

 1992年6月15日、午前10時25分にマルメ駅を出た列車は、イエーテボリへ向かって走っていた。

 ヨーロッパ選手権は,前日、A組の各2試合目を終わり、この日、イエーテボリとストックホルムでB組の第2試合が行われる予定だった。14日、日曜日、午後5時15分キックオフのフランス対イングランド(0−0)を取材したわたしは、この日の朝、プラザ・ホテルをチェック・アウト。この列車に乗った。

 はじめは12時25分発を予定していたが、早い時間に変更したら、指定席の六人がけコンパートメントに英国のスポーツ記者ブライアンとカメラのボブ・トーマスが、すでに坐って話しこんでいた。

 グランビル記者は1931年生まれだから61歳、わたしより少し若いが、英語はもちろん、イタリア語、スペイン語なども上手で、サッカー記者というだけでなく、スポーツ、とくにサッカーをテーマにした小説も書き、世界的に知られたジャーナリスト。欧州選手権やワールドカップのたびに顔を合わせ、こちらの問いにも、いろいろと教えてくれる。

 ボブ・トーマスは、若いが、日本にもたびたび取材に来ていて、日本のカメラマンにも知人が多い。自分で会社を持っているとか。

 同室にアメリカ人の記者もいるところへ、通りかかったフリーライターの大住良之氏も加わったものだから、コンパートメントは、たちまちサッカー談議。

 東京オリンピックの時に来日したことのあるグランビルは、リネカーの日本行きについては「非常にセンシブルな決定」だといい、リネカーの話から、カマモトはどうしているかなど、こちらへも話をふってくる。“大記者”の独演会になるところを、ちゃんと、自分の情報を仕入れるところがやはりなァという感じだ。

 いつも、こういう時に思うのは、なんとか“会話”はできても、グランビルとトーマス、あるいはグランビルとアメリカ人記者が調子に乗ってしゃべり出すと、その早さにすぐ横にいても、こちらの耳がついていけないのが情けない。


前夜のフランス対イングランド

 友人を見てくるとグランビルが出ていったあと、トーマスからもらった「デイリー・ミラー」紙に目をとおす。15日付のタブロイドのこの新聞の一面は、13日夜、マルメで暴れた英国のフーリガンの写真とその説明。そしてダイアナ妃の写真。英国では彼女とチャールズ皇太子のゴシップがマスメディアの“売物”の感があるが、この36ページの新聞の4、5面がフーリガン。うしろの4ページをEURO'92に使っている。

 前日の試合については「フランスはイングランドより幅広い選択ができるはずなのに、前半16分のパパンのシュートと後半のアングロマのヘディングが脅威となっただけ…そして、最後まで点を取ろうとするのでなく、終わりに近づくと後方でボールをキープする"面(ツラ)の皮の厚い"(恥しらず)やり方で時間かせぎをした」「おそらく、引き分ければ、イングランドと同じく、勝ち点2(2引き分け)。得点(ゴール)は1あるから、イングランドより有利。そして、予選リーグ最終戦の対デンマークに勝てばいいと計算したからだろう。しかし、こういう試合は高い入場料を支払ったスウェーデンの観客や、テレビ観戦者を失望させるものだ」とある。

 自分たちのイングランド代表についても「イングランドの攻撃はいくつかのシュートチャンスを生みながら、前半のピアース、シントン、シアラーたちのシュートは、外れるか、イージーなもの。後半30分のピアースの30bFKがバーを叩いたときだけが、フランスのGKをヒヤリとさせた」と…。ついでに「13日の後半にはフーリガンたちが暴れたが、14日の試合前のセレモニーでフランス国歌合唱のとき、英国サポーター席から、英国国歌を歌う非礼な連中がいた」「もしイングランドが予選リーグで敗れれば、こうした恥ずかしいサポーターも帰ってゆくだろうというのが救いとなる」…と手厳しかった。

 前日の試合のあとの記者会見で、プラティニは「わたしは攻めるサッカーが好きなのだが、大会で勝ち抜くということから、こんな不本意な展開にもなってしまう」と語ったが、わたしは第一線で、特異なドリブルをした黒人アングロマ(後半に投入)や小柄でパスやドリブルの上手なペレズの起用(74分)が、もっと早ければ、パパンにシュートチャンスがもう少しあった(たとえ相手の2人のCBが強く、スイーパーまでいたといっても)のではないかと思うが、こうした選択は、守りの面で不安もあるだろうし、決断が難しい。プラティニと仲間のいないフランスを指揮する"将軍"の悩みは、そのまま各国の悩みのようにもみえるのだった。

 列車が止まった。ヘルシングボリだ。ああ1951年にこの町からチームが来日したから、わたしにはなつかしい響きを持つ。ほんとうならこの町にも立ち寄って、調べてみたいことも多いのだが……。

 いろんな思いをのせて列車はイエーテボリをめざして走り続けた。

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