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ストックホルムの図書館で"ベルリンの奇跡"を当時の新聞から実感する

ストックホルムの図書館で


 Sveriges Fotbollslag hemimorgon Genant nederlag, stryk av Japan.inrvarstiasko. SVENSK LEDING 2−0

 「スウェーデン・フットボール・チームは、あす、帰国」

 「困った敗戦。日本に敗れたのは、ディフェンスのミス。スウェーデンは2−0とリードしていたのに」

 『DAGENS NYHETER』紙、つまり英語なら『デイリー・ニュース』となるこの新聞の日付は1936年8月5日とあった。

 「これがその記事なんだ」

 マイクロフィルムを電光で新聞の大きさにして拡大して、私は辞書(英語⇔スウェーデン語)を片手にしばらくながめていた。

 1992年6月17日のお昼、私はスウェーデンの首都ストックホルムの市立図書館にいた。

 ヨーロッパ選手権はA,B各組とも第二戦をすませ、この日、ストックホルムでスウェーデン対イングランド、マルメでフランス対デンマークとA組の各第3戦を行うことになっていた。

 6月15日にイエーテボリでオランダ−CIS(0−0)を見た後、ストックホルムへ戻り、夜の試合までの時間をセンチメンタル・ジャーニーの目的のひとつ『1936年への回顧』のための図書館訪問となった。

 午前10時開館の市立図書館は、入るのも出るのも一切制限なく、新聞の閲覧申し込みにも、身分証やパスポートを見せろともいわない。

 係りの女性に頼むと、どの新聞がいいかといわれ、その頃の新聞事情も分からないから、どれでも一つと頼んで、持ってきてもらったのがこの『デイリー・ニュース』の1936年のマイクロフイルム。



ベルリンの奇跡


 この年の8月1日から16日まで、ドイツのベルリンで第11回オリンピック夏季大会が開催され、日本代表選手団は、水泳や陸上競技で活躍したのだった。小学校6年生だった私はボツボツ勉強という親の配慮で、夏休み中も『別勉強』と称した家庭教師について、毎日、かなりの時間、友人とふたりで習ったのだが、その『忙しい』中で深夜の『前畑ガンバレ』などのラジオ放送を聞いたものだ。

 サッカーの私たちの先輩は8月4日、1回戦で強豪・スウェーデンと当たり、3−2の『奇跡の逆転』をとげて欧州では大評判になった。

 小学校の時にサッカー遊びはしたが、日本代表チームにまでは関心が動かず、もっぱら孫基
 さんのマラソン優勝に刺激されて、我が家近くの路地(細い道)を周回したことは覚えているが、旧制・神戸一中に入り、サッカー部に入るとベルリン代表だった先輩もいて、1936年は、私に身近なものとなった。

 日本に予想外の敗戦をして、帰国する時にスウェーデン・チームは、一つ手前の駅で下車したとか、あるいは戦後初めて湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受け(1949年)その授賞式でストックホルムを訪れたとき、記者団から『ベルリンの奇跡』を質問され、湯川さんはサッカーボールをヘディングするポーズで写真を撮らせた…などというエピソードもあった。

 この新聞を見ると、試合の翌日、つまりベルリン大会そのものの第4日について、この新聞は第1面の他、第10、11、12、13面の見開きを使って、なかなか丹念な報道ぶりだ。

 マイクロフィルムのコピーは、料金を払って、機械操作を教えてもらい自分でとったが、始めに「機械が古くて、とても写りが悪いですよ」と念を押されたとおりの代物(しろもの)。資料としては、もうひとイキだが、それでも、その時の新聞を、56年後に実際に見た…ということで満足することにした。



イングランド、前半好調


 それから8時間後、私は、ベルリンの奇跡のメモをつけたノートの別のページを開いて、スウェーデン―イングランドのメンバーを書き込んだ。

 午後8時15分ストックホルムの北西部の住宅地ソルナにあるラスンダ・スタジアムは、イングリッシュ・フーリガンに対する厳重な警戒の中で始まった。彼らの席は、記者席のあるスタンドから見て、右手ゴール後ろの左上部と、バックスタンドの一階席の右半分。サポーターのほんの一部がフーリガンというだけで、はるばる応援にやって来た人たちと、一般観客との間には警官の列が入っている。この日の動員は1800人という。

 そのイングランドのサポーターにとって、前半の45分は、誠に楽しかったに違いない。開始後わずか3分に、小柄なバッティがヘディングで右前に落としたのを拾ったリネカーが右前方へ突進、右サイドからライナーのクロスをゴール前へ、ゴールマウスへ走り込んだプラットがゴールエリア外あたりで、ワンバウンドをボレーで叩いて左スミへ決めた。

 3試合で初のゴール。それも「これがイングランド」という速攻だったから、今日はいけると、サポーターもイレブンも思ったはずだ。

 監督グラハム・テーラーは、この日もメンバーを少し入れ替え、中盤のプラットをトップにおいたのが、このとき成功したからニンマリだったろう。リネカーの動きも良く、チーム全体は生き生きとして見えた。

 スウェーデンは、ダーリンとブロリンのキープ、ドリブルで反撃し、試合はイングランド優勢のまま進んだ。34分、右サイドのデイリーからのクロスをリネカーがスライディングで飛び込んでわずかに届かなかったが、もし入っていれば……。



スウェーデン高さの反撃



 ハーフタイムでのマルメのスコアは、デンマーク1―0フランス。このままでゆくとすると、A組はイングランド、スウェーデン、デンマーク、フランスの順となるのだが、スウェーデンは後半に猛反撃に出た。

 左サイドの小柄なリンパルに代えてエクストレームを起用。188cmの彼は、キックオフから、いきなり右前へ突進した。彼が前へも出てくることで、190cmのインゲソンのヘディングの効果が強まり、スウェーデンのFKやCKは、イングランドにとって大きな脅威となる。

 イングランドのDFも背が低い訳ではないが、190cmクラスの二人にはどうしても目を奪われる。

 52分の左CKからの同点ゴールはエリクソンの飛び込みによる。フランス戦のような見事なヘディングだが、二人の巨体に注意を向けておいて、エリクソンに合わせた作戦と、シュバルツのキックの成功だった。

 追うものがホームグラウンドとなれば、勢いは加速する。その高さの攻めに、イングランドが押し込まれ、ダーリンやブロリンの落下点への動きが、さらに良くなる。イングランドには、同点ゴール直後のリネカーのクロスからバウンドをパーマーがダイレクトシュートする惜しいチャンスもあり、まだまだ勢いを回復出来そうだったが、61分にテーラー監督は、リネカーを引っ込めるという『大決断』をする。代わりは、スミス。アーセナルの191cmの長身CF。狙いは明らかで、ロブで勝負にくる相手に対して、イングランドもそれでゆこうと考えたらしい。

 それにしても、ボビー・チャールトンのイングランド代表の得点記録(47)にあと1と迫っているリネカーを引っ込めるとは。そんな記録よりも、私には、この日のリネカーの調子からみて、自分での得点はともかく、得点に絡む動きは期待出来たのに…。

 

リネカー交代に質問殺到



 もともとテーラー監督はイングランド・リーグで弱小のワトフォードを1部の上位に進出させて話題となった人。ワトフォードは激しい動きと、キック・アンド・ラッシュが主たる戦略だったから、リネカーたちの低いボールよりも、ロブ攻撃の方があっていたのかもしれない。

 空中戦に切り替えたイングランドに対して、それには自信あり…とするスウェーデンが奪った決勝点は、今度は『ジャイアンツ』のヘディングではなく、177cmのプロリンの壁パスでの中央突破。ドリブルして、まずエリクソンと、次いでダーリンと壁パスを続け、ウエップとデス・ウォーカーの間をすり抜けて、小さな振りでシュートを決めてしまった。

 試合後の記者会見で、スベンソン監督はベスト4に入ったことを素直に喜び、テーラー監督はスウェーデンが後半に、自分たちよりもよかったことを認めた。

 そのテーラー監督に対して、イングランドの記者たちからリネカーの交代について、つっこんだ質問が次々出されるのを聞きながら、私は、この日の午前中に見た56年前のベルリンでの日本に逆転負けした試合のスウェーデン紙の扱いの大きいことと、当時の日本での反響の小さいこと、1958年ワールドカップに続いてスウェーデンが自国で開催するサッカーのビッグイベントで、またまたべスト4に進出したことを合わせ思った。

 そしてまた、いまプレス・コンファレンスで話題になっているリネカーが、いよいよ日本へやってくる時代が来た…半世紀に渡る日本サッカーの流れを噛みしめるのだった。

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