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オールタイム11にヨーロッパの厚味を思う



ネッツァーらが集合



 ファケッティがいた。ネッツァーもいた。ボビー・チャールトンも、ベッケンバウアーもいた…。

 1992年6月24日、イエーテボリのシェラトン・ホテルに懐かしい顔が集まっていた。

 2日前の6月22日に準決勝を終わった'92ヨーロッパ選手権大会は、26日の決勝まで3日間の中休みがあった。

 前日、オランダへの日帰り旅行をしたわたしは、この日は、午前中に市内のコングレスホールでモロッコのワールドカップのプレゼンテーションに顔を出し、そのあと、欧州選手権での「オールタイム・ベスト・イレブン」の選定発表の取材にやってきたのだった。

 会場は、11人の名前の発表が終わったところ。

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 GK ヤシン(ソ連)

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 DF フォクツ(ドイツ)、ファケッティ(イタリア)、ベッケンバウアー(ドイツ)、F・バレージ(イタリア)

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 MFとFW B・チャールトン(イングランド)、ネッツァー(ドイツ)、プラティニ(フランス)、マテウス(ドイツ)、クライフ(オランダ)、ファンバステン(オランダ)で、選ばれたプレーヤーを代表してボビー・チャールトンがあいさつを述べていた。

 オールタイムのベスト・イレブンということになると、それぞれ選考者の好みで意見も分かれるが、まず、30年と8回の歴史をへた大会で、記者やテレビ解説者に選考の投票をたのみ、スポンサーをつけて、こうした催しをつくり、中休みの日にもニュースを提供するところにUEFA(ヨーロッパ・サッカー連合)のうまさが、あるようにみえた。

 各国代表チームによるヨーロッパ・ナンバーワンをきめる試合をしようと考えたのは、アンリ・ドロネー。ワールドカップのジュール・リメや、オリンピックのクーベルタンと同じフランス人であるのもおもしろいが、彼の提唱がFIFA(国際サッカー連盟)とUEFAに受け入れられたのが、1958年スウェーデンのワールドカップのとき、W杯が終わってから2年がかりで行うことになり、はじめは欧州ネーションズ・カップと言っていた。

 第1回は54年のワールドチャンピオン、西ドイツやイングランド、W杯開催国スウェーデンなどがでていないのは、国内日程との調整の難しさや、まだこの試合にそれほどの権威がついていなかったのだろうが、年を重ねてヨーロッパで最高の大会となり、1980年から、開催国をきめておいて、そこで予選を勝ち抜いた7チームと開催国チームが争う、ミニ・ワールドカップ方式となった。その80年大会から、足を運ぶようになって、すでに10年余がたつ。


カテナチオとファケッティのカウンター



 発表されたひとりひとりは、いずれも、その時代を代表するプレーヤー、カテナチオの全盛時代に厚く守っておいて、カウンターにとび出したFBのファケッティは、68年にイタリアがユーゴを破って優勝したときの主将。長身で、かつての古代ローマ軍の将軍のようだと思った顔はいまも変わらない。

 そう、この68年大会のときの準決勝で、同点のときにコインで決勝進出をきめるのが、イタリア人のファンやマスメディアで大きくとりあげられ、それがPK戦を採用するもととなった。そして、そのPK戦が実施された76年には74年W杯優勝の西ドイツがチェコに決勝で2―2のあとPKで5―4と敗れている。

 4人選ばれたドイツ選手のうち、フォクツ、ベッケンバウアー、ネッツァーは72年大会で圧倒的な強さで優勝したときのメンバー。ネッツァーは72年大会で圧倒的な強さで優勝したときのメンバー。ネッツァーはW杯では活躍しなかったが、72年のゲームメークは語り草だ。

 イレブンのなかで、ただひとり、2年前にガンで去ったヤシンは、夫人が出席していた。ヤシンと同時代のファケッティが夫人に話しかけ、それを、記者やテレビがとりかこむのをみながら、わたしは、わずか30年の間に続出したスターたち、ここに名は出ていなくても強い印象を残した名手たちにも思いをはせ、改めてヨーロッパの厚味を感じるのだった。

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