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決戦を前に素直でひたむきな北欧人気質にふれる

皇太子も観戦に



「デンマーク皇太子フレデリック殿下は26日にイエーテボリ着。当日の試合をご観戦」

「外務大臣から代表チームの準決勝の勝利に祝電が届きました」

 イエーテボリのプレスセンターの一角の広報板に張られた大会本部のインフォメーションにまじる「DANISH CAMP NEWS」が決勝を迎えるデンマークの喜びを素直に伝えていた。

 1992年6月25日、EURO'92は、つぎの日の決勝、ドイツ―デンマークを残すだけとなっていた。

 人口45万人、スウェーデン第二の都市イエーテボリでのわたしの三回目の滞在も4日目となった。6月7日にストックホルムに入り、前半はストックホルムをベースにしていたため、イエーテボリには1次リーグの間に訪れるチャンスは二度あったが、それぞれ一泊しただけで、試合を見た翌日に移動していたからゆっくり町を眺める時間もなかった。

 わたしが泊まっているサラ・ホテル・ヨーロッパは、中央駅のすぐ近く、広場と市電の線路をへだてた大ショッピングセンターの横にあって、ウレッビ競技場にも、プレスセンターにも歩いて10分そこそこ。試合のない日にもインフォメーションを見にゆき、試合のビデオを借りて、もう一度、メモをチェックするのには便利だが、それだけに、一日か二日、市の周辺の観光や博物館の見物にあてようと思っていても、つい、足がプレスセンターに向いてしまう。



二人の大物国際人



 この日は、デンマーク・チームの記者会見が彼らの宿舎、ステタングスバーデンのヨットクラブで行われることになっていたが、プレスバスに遅れて、折角の機会をフイにした。そこで、もうひとつのスケデュール、ヨーロッパ・サッカー連合(UEFA)の総会をのぞくことにする。市の中心部のリーセベリ公園に近い「コングレス・ホール」は前日、モロッコの代表団がW杯誘致のプレゼンテーションを行ったところ。わたしが到着したときには、ちょうど会議が終わり、レセプション会場へ出席者が移るところだった。

 ネクタイをつけてスーツを着こんだ役員さんの中へジャンパー姿で交じるのは、いささか気がひけたが、UEFAのレナルト・ヨハンソン会長には会っておきたかったので、パーティー会場へ。

 円いテーブルに、思い思いに座り、セルフサービスで、ご馳走をとり、飲物をはこぶ。メンバーのなかにFIFAのブラッター事務局長がいた。

 1979年に日本で第2回ワールドユースが開催されたとき、競技場の下調べなどで来日したときは、まだ事務局長にはなっていなかったが、スイス育ちで四カ国語をキレイに話すこの弁護士さんは、アベランジェ会長の信任厚いFIFAの実力者だ。彼の活躍ぶりに敬意を表してあいさつすると、「'79の日本でのワールドユースという懐かしい思い出を共にできる友人に会えて、とてもうれしい」という答えがかえってきた。

 なるほど、こういう言葉をスラスラといえなければ、国際舞台では通らないのだナと感心する。

 ヨハンソン会長はスウェーデンの会長だったのが1990年に前任のジャック・ジョルジョ氏が辞任したあとの総会で選ばれ、こんどのEURO'92の開催の総責任者となったが北欧人らしく長身、でっぷりしていて堂々たる押しだし。
「東方のエトランジェのマスメディアを34人も受け入れてもらったことに感謝します」…とわたしがいったら「ヨーロッパ以外の大陸からメディアが来てくれるというのは、この大会が、それだけ関心をもたれていることでたいへん喜んでいる」といい、「日本のサッカーは1936年のベルリン・オリンピック以来、スウェーデンとはずいぶん長い交流をつづけた。第二次大戦以後のスウェーデンのクラブ・チームの来日で、わたしたちはずいぶん学んだ」に対して「1936年のベルリンは、わたしたちに大へんなショックだった」と手で顔をおおってみせた。ブラッター氏の洗練とは、また違った気さくさも国際人の資質かも……。

 プレスセンターにもどると、英国の記者ブライアン・グランビルがいて「きょうはデンマークの記者会見に行ってきた、彼らの話は飾り気がなくとてもよかったョ」と前おきし、自分がまだ若いかけ出し記者だったころに、デンマーク人でイングランドのチェルシーのキャプテンになったミッデルボウという長身の選手がいたことなどを懐かしそうに語った。

 辛口の批評家でイングランド代表チームのテーラー監督の采配や、FIFAの方針などにも、厳しい記事を書くブライアンを魅きつけるものが、デンマークにはあるに違いない。

 わたしは、大記者の顔を見ながら、デンマークのひたむきな試合ぶりを思い浮べた。

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