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高年齢と暑さに敗れたドイツ

 今度のワールドカップでドイツ代表がベスト4に残れなかったのは、一つの「事件」だった。試合について、それぞれの局面に敗因があるに違いないだろう。しかし、私はドイツが広く暑いアメリカで、自分流のサッカーを進めて連戦を勝ち抜くためには、いささか年齢が高かったのではないか、と思っている。


フォクツ監督は名DF

 ドイツが準々決勝でブルガリアに敗れた7月10日、私はその試合会場のニューヨークから2,930マイル(4,688キロ)離れたサンフランシスコにいた。

 前日、ダラスでブラジルがオランダを3-2で破るのを見て、この日の朝ダラスを8時に出てサンフランシスコへ向かった。準々決勝のスウェーデン対ルーマニアを取材するため、スタンフォードの競技場へ駆け付けたら、スタジアム周辺で、一群の人達が「ブルガリア、ブルガリア」と連呼していた。

 メディア・センターに入ると、試合が終わった後らしく、テレビ画面にドイツのフォクツ監督の沈んだ表情が映っていた。

 「私達は2つのことを犯した。一つはストイチコフのFKのとき、壁の作り方が悪かった。もう一つが守りのマークが狂って、レチコフにヘディングされたとき、彼のマークにヘスラーがいくことになってしまった。この2つの失敗が、それぞれの失点に繋がってしまった」と語っていたが、その画面を見ながら、ワールド・チャンピオンという重い肩書きを背負ったフォクツ監督の苦労が察せられた。

 ハンス・フーベルト・フォクツ。選手時代、ベルティの愛称で親しまれた彼は、1メートル68センチの小さな体で相手チームのキー・プレーヤーを封じる素晴らしいDFだった。

 65年に19歳でボルシアMGに入ってから、ブンデスリーガではこのクラブ一筋にプレーを続ける。67年から78年まで西ドイツ代表選手に選ばれ、74年西ドイツW杯では右DFとして、2次リーグでは当時ヨーロッパ随一といわれたユーゴの左ウイング、ジャイッチを完封し、また決勝の対オランダ戦でもヨハン・クライフの攻撃力を減殺して、チームの優勝に大きく貢献した。

 その頃の西ドイツでは、ボルシアMGとバイエルン・ミュンヘンとの優勝争いがリーガ全体を引っ張っていた。彼とバイエルン・ミュンヘンのベッケンバウアーとはライバル関係であり、また代表チームでは強力な仲間だった。

 78年アルゼンチンW杯の後は、DFB(ドイツ・サッカー協会)のコーチとなり、若手の育成にあたっていた。84年の秋からベッケンバウアーが臨時に代表チームの監督になると、フォクツはまた「皇帝」を助け、86年メキシコW杯で準優勝、90年イタリアW杯では優勝を成し遂げた。

 世間は、ベッケンバウアーの強運(代表チームの主将で優勝、監督でも優勝)を語りながら、そのチーム作りにはフォクツの努力があったことを高く評価した。


DFB監督のプレッシャー

 「短期」という約束通り、ベッケンバウアーは2年で監督を辞め、フォクツがそのポストに就く。第2次大戦前後からのゼップ・ヘルバーガー以来、第2代のシェーン、第3代のデュアバルに続く、第4代目のDFB監督となったのだ。

 「世界に冠たる」ドイツ・サッカーの代表監督は、ドイツの名士であると同時に大きな責任を伴う。サポーターとメディアは、代表チームが常にヨーロッパのトップであり、世界の頂点にあるものと思っている。

 DFBが協会所属のコーチを置くようになり、初代ゼップ・ヘルバーガーが第2次大戦の荒廃の中でコーチ育成制度を作って復興に乗り出した。その情熱と戦術は54年スイスW杯の優勝となって表れた。ナチス・ドイツの犯した大きな罪と、敗戦によって自信を失っていたドイツ国民全体に、この優勝はどれほど大きな力になったことか──。

 第2代のシェーン監督は、ブンデスリーガの創設によるトップ・プレーヤーの充実期を基盤に、ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、フォクツらの選手を得て、66年イングランドW杯準優勝、70年メキシコW杯3位、74年西ドイツW杯優勝と輝かしい成績を残した。更に72年ヨーロッパ選手権のタイトルを合わせ持って、世界とヨーロッパにドイツ・サッカーの優位を示したのである。

 78年秋からシェーンの後を継いだデュアバル監督は、80年ヨーロッパ選手権優勝、82年スペインW杯準優勝と上々の滑り出しをみせながら、84年ヨーロッパ選手権ではベスト4にも入れず、その采配を批判されて監督の座を降りた。

 代わってベッケンバウアーが緊急事態という形で86年メキシコW杯に指揮をとり、90年イタリアW杯でもそれを踏襲したのだった。

 こうした伝統のあるDFBの監督にとっての難しさは、選手の切り替えをどの時点で行うかにある。4年後のW杯に備えて早いうちに若い選手を起用し、経験を積ませなくてはならないが、フォクツはまず92年ヨーロッパ選手権の予選を突破し、スウェーデンでの本大会でタイトルを打開するという使命があった。

 しかし、決勝で伏兵デンマークに0-2で敗れる。ファイナルへの道も平坦だったわけではなく、ソ連と引き分け、スコットランドに勝ったがオランダに敗れ、準決勝では3-2でスウェーデンを破って、ようやく決勝に進んだのだった。

 90年イタリアW杯の主将マテウスが故障で欠場。このことが響いたというのが定評だったが、確かに顔ぶれは安定していても、衰えが見え始めたベテランに代わるニュースターの際だった台頭はなかった。FKとドリブルの名手、小柄なヘスラーは注目に値したが、すでに26歳。MFの攻撃面で大いに伸びるはずのザマーも24歳になって、まだ足踏みしているようにみえた。

 そして2年後、フォクツが米国へ連れてきたチームは4年前のチームからアウゲンターラーとリトバルスキー、そしてロイターが抜けただけで、ほとんど変わらぬ顔ぶれだった。

 ところで、ドイツのサッカーは本質的に、まず動きの量と質で相手を制圧する。中盤で、相手を厳しくチェック、ボールを奪うとすぐに攻めかかる。90年イタリアW杯で、私は、ユーゴのテクニシャン達がドイツの中盤の包囲にお手上げとなり、完敗したのを見た。

 ただし、この速い動きや強い当たりは労力を必要とし、W杯の長丁場では動きの低下する試合もある。それをドイツ・サッカーの持つ厚味(医療、疲労回復法、その他)で、これまで乗り切ってきた。

 しかし、今度の大会はそうはいかなかった。米国という国の広さ、多様な気候、それに暑さも湿気もそれぞれの町で異なり、また芝の状態も会場によって異なっていた。そうしたタフな環境で戦い抜くのは、90年から4歳年長になったチームには難しかったのだろうと思う。


若い伸び盛りはチームの活力

 私はチームの年齢について考えるとき、いつも次のような区分けを作る。30歳以上が何人いるのか、29歳〜27歳…、26歳〜24歳…、23歳以下…。

 平均年齢を出したところで、ロジェ・ミラやジーコのような40歳代の選手がいれば、それだけで1歳は上がってしまう。経験があり、働き盛りの年齢を27歳〜29歳とみた上で、オーバーワークに堪え、休養すれば回復できるのが24歳〜26歳(伸びる時期でもある)、そして若々しい23歳以下、ベテランの味のある30歳以上のそれぞれの人数の比率をみることにしている。

 米国大会ベスト8に入ったチームを同じく4つの年齢別にみると、出場選手125人のうちほぼ半数は27歳の後で仕切られているが、このうちスウェーデンとルーマニアという若いチームを除くと、残りのチームは総勢95人のうち27歳以上が56人、26歳以下が39人。今度の大会は、おじさんの多い大会だったということになる。

 その中で、ドイツは16人のうち11人が27歳以上。それも30歳を超える4人が、33歳(マテウス、ブレーメ)2人、34歳(フェラー)1人、32歳(ブッフバルト)1人という状況。ブラジルも30歳以上は3人いるが、リカルド・ローシャ(1試合出場しただけ)の31歳ブランコ、ベベットの30歳だから、ドイツより大分若いということになる。

 70年から94年までの7回の大会の優勝チームでは、前回優勝のドイツは当時、伸び盛りの層が半数を占めていて、チーム全体に勢いがあったことを示している。それに比べると今回のドイツは、この層が出場選手の3分の1しかいないのだから…。

 24、25歳の実力者で、しかも伸びてきている選手がいれば、チームの大きな活力となる。90年のドイツにはクリンスマンやコーラーなどがいたし、74年の優勝のときには27歳〜28歳のベッケンバウアー、フォクツ、ゲルト・ミュラーに加え、ブライトナー、ヘーネス、ボンホフといった22歳の若手が活力を吹き込んでいた。

 ついでながら、このときの決勝の相手オランダには、27歳のクライフの他にニースケンス、レップ、レイスベルヘンらの22歳組がいた。そして、70年のペレ(28歳)やカルロス・アルベルト(26歳)のいたブラジルも、12人のうち6人が26歳以下。毎試合に得点をマークしたジャイルジーニョは25歳という働き盛り、伸び盛りだった。

 この大会で、私がブラジルに期待したのはサンパウロのレオナルド(鹿島へ移籍)のような若い伸び盛りの選手がいることだった。その彼が退場処分で試合に出なくなってから、ブラジルもまた「強い」だけのチームになってしまったのは残念だ。

 そのブラジルについては別の機会に触れるとして、今度のドイツは、やっと対ベルギー戦で良くなったザマーがケガをしてしまい、出場できなくなったというように、若い選手の台頭がなかったこと、そういうチーム作りができなかったことが、フォクツの敗因だと思う。日本でも、若い選手の急速な成長が必要なのは言うまでもない。

(サッカーダイジェスト 1994年8/24号より)

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