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何より優勝がブラジルの課題

 7月17日の決勝は120分戦って0-0、PK戦による決着となった。それはドラマチックであっても、華やかさに欠けるフィナーレだったことは確かだ。しかし、その内容にこそ不満は持たれたものの、ブラジルにとっては24年ぶりのタイトルとなったのだ。パレイラ監督には、世評よりもワールドカップを手にすることが重要だった。


攻撃サッカーの奨励

 7月19日付のロサンゼルス・タイム紙一面に、こんな見出し記事があった。

 「米国ワールドカップは大成功──決勝戦を除くと…」

 決勝戦の翌日、つまり18日付の各紙はドラマチックなPK戦を詳細に報道し、R・バッジョというスターが11メートルからノーマークで蹴るシュートを失敗し、それによってブラジルの優勝が決まった瞬間を描写した。ブラジルの喜び、イタリアの失望、あるいはパサデナ(ローズホウル・スタジアムのある地名)に集まった人達の興奮などを手厚く報じていた。

 18日には大会終了にあたり、FIFAブラッター事務局長の報道会見が行われた。その席上、ブラッター氏は「米国ワールドカップは大成功だった。しかし決勝のPK戦は、テレビではドラマチックで良かったけれど、我々がこの大会の決勝に期待していたような試合ではなかった。その点では不満が残った」と語り、「再度、決勝が90分の規定時間内で同じスコアのときは、延長戦を行うが、現行の15分ハーフのものでなく、(Jリーグのような)サドンデス方式にしたい」とも述べた。先の見出し記事は、この記者会見からのものだった。

 ワールドカップを開催するに当たって「サッカーは得点が少ないから面白くない」という米国人の一般的なサッカー観があった。それを変えるため、攻撃的な試合運びを奨励し、勝点をこれまでの1勝2点から3点に変えた。引き分け(勝点1)を2試合したとしても1勝には及ばないことにしたのである。

 また、オフサイドのルールについても「積極的にプレーに関わっている、とレフェリーが判断したときはオフサイド」というように、そのポジションにいるという理由だけで、ラインズマンがフラッグを上げてはいけないことも確認した。この解釈はオフサイドの規制緩和につながり、攻撃側を有利にした。

 更に、後方からのタックルを厳しく罰することもレフェリーに要望。選手をケガから守るとともに、シュートチャンスを反則で妨害することを止めさせようとした。

 こうした改革によって、1次リーグからゲームは前回大会に比べてエキサイティングになり、90年大会では0-0の引き分けが5試合だったのが、今回は3回に減った。また、PK戦が前回の4試合から3試合に減少している。

 大会の全52試合の総得点は142だった。前回大会の115より27ゴール多く23%の増加だ。平均得点も2.73となった。

 FIFAとすれば、バックパスを処理するのにGKが手を使ってはいけない、としたルール改正以来、この大会を目指して取り組んできた「サッカーの魅力を増す」政策の成果を数字で示そうとしたわけだ。しかし、決勝戦が両チームとも守備的だったこと、その結果、120分間も0-0であったこと、PK戦という、サッカーのゲームからすると自然ではない勝者決定法を取らなければならなかったことが「残念」だったことだろう。


ブラジル代表の24年の教訓

 ペレの時代、3度の大会に優勝したブラジルはそれ以降も、常に優勝候補といわれてきた。70年の大会を最後に「王様」ペレが国際舞台から去ったが、74年のチームにはリベリーノやジャイルジーニョがいた。しかし、守備力も抜群といわれたこのチームは、クライフ率いるオランダに敗れ、3位決定戦に残っただけだった。

 78年は若いジーコとベテランのリベリーノが故障で力を発揮できず、3位に止まった。そして80年代はテレ・サンターナ監督が黄金のカルテットと呼ばれるMF陣を核に、攻撃型のチームを世に送った。ジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、ファルカン、それにジュニオールらの「芸術家」は、バリエーションの多い攻撃でファンを沸かせた。イタリアのカウンターに敗れたが、誰もが優勝を期待したチームだったのだ。

 彼らは86年にもワールドカップに挑戦した。技術は素晴らしかったが、年を取った分だけメキシコの暑さに苦しめられ、結局ベスト8にも残れなかった。

 90年は、攻守にバランスのとれたチームだった。ロマーリオがケガに泣かされたが、カレッカがいた。しかし、攻め続けても点が取れないこのチームは、アルゼンチンにマラドーナのたった1本のパスで敗れてしまう。実力からみれば、取りこぼしともいえる敗退だった。

 今回、ブラジルを率いたパレイラ監督は70年優勝のとき、ザガロ監督を助けてチームのフィジカルコーチを務めた経歴を持つ。つまり、真の攻撃型チーム、ブラジル・サポーターの望む「ドリーム・チーム」がどんなものかを実感していた。その彼が、20年余りタイトルから遠ざかっていた現実を直視して作り上げたのが、取りこぼしをしないチームだったのだ。

 80年代の経済不況以来、ブラジル・プレーヤーの欧州への移籍が増え、代表チームのメンバーも、半数が欧州のリーグでプレーしているか、プレーした経験のあるものとなった。

 イタリア、スペイン、ドイツなどの強豪リーグは報酬が良いだけでなく、チームのレベルも高い。特にチームゲームとしての訓練が厳しい。

 かつては動きの量の少なかったスペインの各チームも、バルセロナのリードによって急速にヨーロッパ・スタイルの展開を見せるようになったのだ。


欧州経験者を主力に

 パレイラ監督の選んだ22名の選手のうち、10名が欧州でプレーしている。ブラジルは優れたFWを生み出す一方で、守備的センスの高い選手も多い。ボールを奪うことと、ゴールを防ぐことの上手なプレーヤー、特にCBが傑出している。そうした個人的に優れたディフェンダーが、欧州で組織ディフェンスを身に付けていた。

 開幕前にリカルド・ゴメス、初戦でリカルド・ローシャと2人のCBがケガをした後も、アウダイールとマルシオ・サントスで埋め、不安はなかった。右、左サイドバックはジョルジーニョとレオナルド(サンパウロから鹿島)。レオナルドが退場となったとき、ベテランのブランコが代役を果たした。

 MFのドゥンガは、イタリア(フィオレンティーナ)とドイツ(シュツットガルト)で経験を積み、ディフェンシブ・ハーフもリベロもできるマウロ・シルバは、スペインで揉まれた。レギュラーの11名のうち、大半を欧州経験者で固めたこのチームは、パレイラ監督の指示を守って、まず点を奪われないことを心掛け、攻撃に飛び出していっても、常に守りを頭に入れるようになっていた。

 幸いなことに、スペインでプレーを続けているロマーリオとベベットという2人のストライカーが健在で、特にロマーリオはポストプレーもドリブルでの突破も、小さなスペースでのシュートも、遠いシュートも巧みにこなした。74年の西ドイツ代表メンバー、ゲルト・ミュラーのような両足シューターではないが、右足では小技も効いた。

 この2人がトップに揃っている限り、DF人が飛び出していく回数が多くなくても点を取ることができる。いわば取りこぼしを極力避ける試合運びができる──ということになった。

 KOシステムのトーナメントに入り、最大の山場であった対オランダ戦でも、
奪ったゴールは、まず1点目が相手のミスパスを自陣で取ったアウダイールが前線
へのロングパス。それにベベットが走り、ドリブルし中央へパス、ロマーリオが
決めた速攻。2点目も、相手のパスをマウロ・シルバが前線へヘディング。ロマー
リオがオフサイド・ポジションにいたので、相手DFがプレーを止めたスキにベ
ベットが拾ってドリブル・シュート。3点目はブランコのFK──と、3点のうち2点
とも中盤からの組み立てというよりは、相手の守備ラインへの一発のパスを2人で
生かしたものだった。

 決勝は守備的になったが、暑さと選手の疲労、相手方(イタリア)も守備重点になっていた。カウンターを狙いながら、そのカウンターも第2、3列が相手ペナルティエリアへ侵入するというところまでは行かず、もっぱらトップの選手だけの斬り込みになったが、これは体力の消耗を考えて当然のことだった。パレイラ監督にとっては、24年間待ったブラジルのチャンスを「危険」を犯してまで失いたくはなかったのだ。

 「決勝は失望」といわれても、ブラジルにとっては勝つことの方が大事だったに違いない。自分達の力を見極め、ブラジルの選手達を欧州の組織に順応させ、優勝にこぎ付けたパレイラ監督のチームは、他のどのチームに比べても力があったのだから、チャンピオンとしての値打ちは十分あると私は思う。

 24年ぶりの優勝で思いを達成したブラジルが、この次どのような試合をしようとするのか、それを楽しみにしたいところだ。

(サッカーダイジェスト 1994年9/7号より)

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