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驚くべき人物アリゴ・サッキ
薄氷を踏む試合を続け、決勝まで勝ち残ったイタリアは、決して強いとはいえなかった。しかし、彼ら独特の魅力があったことも事実だ。決勝まで一つひとつ勝利を積み重ねてきたわけだが、中でも一次リーグ第2戦のノルウェー戦は、監督の驚くべき決断を見せつけられた試合だった。アリゴ・サッキの、あの日を振り返ってみる。
R・バッジョをベンチへ!?
「えっ、R・バッジョを交代させるの」
テレビを見ていた記者の誰もが、自分の目を疑ったに違いない。
94年6月23日、米国の東部時間午後4時を20分ばかり過ぎていた。聞いた場所はボストンのフォックスボロ・スタジアム。この日、一次リーグC組の韓国─ボリビア戦(午後7時35分開始)が予定されていた。
そのキックオフまでの間、ニューヨークで行われているイタリア─ノルウェー戦をテレビ中継で見ていたのだが、21分にイタリアのR・バッジョがベンチへ引き上げていったのだ。
ノルウェーの攻撃に対してGKパリュウカが、突進してきた相手FWレオナルドセンを防ぐときに反則があり、パリュウカは退場となった。サッキ監督は、控えのGKマルケジャーニを投入するための交代要員をR・バッジョにしたのだった。
得点するためには欠かすことのできない男、ヨーロッパ最優秀選手、FIFA選定の世界最優秀選手のR・バッジョである。
「すごい決断だね」
「ちょっと考えられませんね」
テレビの前は、こんな声でひとしきりざわついた。NHKテレビの解説者として、たまたま居合わせた森孝慈氏(元浦和レッズ監督)も、「ちょっとできない決断だ」と驚いていた。
イタリアは、この日の大会の2戦目だった。第1戦は6月18日、やはりニューヨークのジャイアンツ・スタジアムで行われ、このときイタリアはアイルランドに0-1で敗れている。同じグループにはノルウェーとメキシコがいて、6月19日に両者が戦い、ノルウェーが1-0で勝った。
4日前、ニューヨークで見た試合のイタリア代表メンバーは、GK/パリュウカ、DF/タソッティ、コスタクルタ、バレージ、マルディーニ、MF/ドナドーニ、D・バッジョ、アルベルティーニ、エバニ、FW/R・バッジョ、シニョーリだった。
エバニ(現在はサンプドリア、元はACミラン)を加えると7人のACミラン勢に、ロベルトとディノの2人のバッジョ(ともにユベントス)、それにセリエAの得点王シニョーリを加えた布陣だが、アイルランドの厚い守りを崩せず、ロビングを上げるにも、長身選手はおらず(後半エバニに代えてマッサーロを投入したが…)、完全にR・バッジョが孤立してしまった。
一度、D・バッジョにいいシュート・チャンスがあったが、相手にも決定的なチャンスが、ホートンのシュートの他にもあったから、0-1の敗戦はゲームの流れからすると当然だった。
その初戦のつまずきを取り返すために、この日はメンバーを3人代えていた。ドナドーニ、エバニのベテランの代わりに、ベルティとカシラギを送り、シニョーリをトップから少し下がり目のポジションに代えていた。
これが功を奏し、R・バッジョが前線へ出て相手DFの裏へ入ろうとする動きを見せるなど、前の試合よりもイタリアには活気があったのだが、21分、GKパリュウカの退場という大事件が起こってしまったのだ。
ノルウェーの中では小柄なミュクランがドリブルで攻め上がったとき、イタリアのDFラインはオフサイド・トラップをかけようとした。しかし、ボールがレオナルドセンに渡ったとき、右にベナリーボが残っていたためオフサイドとはならず、GKパリュウカが飛びだし、ファウルするハメになった。
プロ経験のないサッキ
交代を告げられてベンチへ引き上げ、下を向いて手で顔を覆うR・バッジョを見ながら私はサッキ監督の非情さ、冷静さに秘かに舌を巻いた。
10人という不利な人数で、しかもものすごい湿気と暑さの中、70分以上戦うことを考えると、R・バッジョの労働力、守備力を計算すれば、彼を引っ込めた方が得と思ったのだろう。
こういう判断は、ひょっとすると自分自身が選手生活を長く続けた監督には、あるいは難しいかもしれない、と思った。
アリゴ・サッキは少年時代からサッカー好きだったのだが、結局はプロフェッショナルのプレーヤーにはなれなかった。それは本人の資質(がどうだったかは知らないが)に関係なく、工場を経営する父親が許してくれなかったからだ。
プロになれなかったアリゴは仕事をしながらアマチュアでプレーし、やがて少年チームをコーチし、チェゼーナのユース監督になったのが77年、彼が33歳の時。5年後にはリミニというクラブの「大人」のチームの監督になり、85年にはパルマの監督を務め、このチームを3部から2部に引き上げた。
彼の戦略、戦術の巧さは、この2部7位のパルマを率いて天下のACミランをコッパ・イタリアで破るという「金星」に表れる。ACミランのベルルスコーニ会長がサッキを見込んで、この無名の監督を招いたのが87年だった。
ACミランというビッグクラブを手にしたサッキは、イタリア・サッカーの伝統カテナチオから4人のDFの選手がフラットに並ぶという新しい戦術に変え、このバックラインを押し上げることで、中盤をコンパクトにし、そこでのプレッシングでボールを奪い、攻めに出るという攻撃的なスタイルを導入したのだった。
これは、1974年のワールドカップでクライフとオランダ代表チームが世界に示した「トータル・フットボール」でも見られたもので、1977年にはヨーロッパのトップチームの多くに、このDFラインの押し上げと中盤のコンパクトさが一つの傾向となって表れていた。しかし、守備に重点を置き、カウンター攻撃志向のイタリアがこうしたモデルチェンジをするのは、ずいぶんと勇気のいる仕事だった。
そうしたサッキ監督の強い気性が、10人で戦う危機的状況の中で発揮された決断──R・バッジョの交代だった。
このとき彼の頭には、チラリとでも「もしR・バッジョ抜きで戦って敗れたら、メディアやサポーターの集中砲火が浴びせられる」ということを考えたかどうか──。
苦しい10人での戦いは、48分にバレージが負傷し戦列を離れることで、一層サポーターに不安をもたらした。しかし、代わったアポローニがきちんと仕事をし、マルディーニがチームをまとめた。
メキシコに1勝しているノルウェーは、ここで2勝目を上げれば勝点は6になり、二次進出が約束されるとあって、長身を生かしたロビング攻撃で威圧を始めた。だが、イタリアは守となれば強い。
「なるほど、そうか。サッキはR・バッジョをベンチに置くことで、この試合は1点勝負と見たのだ。相手の攻めに耐えて無失点に防ぎ、1発のチャンスを生かす試合をする」と改めて思った。
68分に3人目の交代を送り、マッサーロがカシラギに代わって投入される。その交代の意味が1分後に知らされた。69分、左FKからシニョーリの蹴ったボールはゴール前へ。飛び込んだのはマッサーロではなくD・バッジョだった。これ以上いいタイミングはないというビューティフルなジャンプでゴールへ叩き込んだのだ。
ヘディングの強いマッサーロが入ってきた直後だけに、彼を警戒したノルウェーDF陣はD・バッジョをフリーにしてしまった。
1点をもぎ取ってからも、ノルウェーの攻撃を食い止めるのは大変だった。長身揃いのノルウェーの空中戦は、イングランドでさえも苦労したほど。イタリアDFの中心マルディーニがフィールドの外で手当を受けている間、サポーター達はいてもたってもいられない気持ちだったろう。
しかし、イタリアの選手達はMFであれFWであれ守りの巧さは天下一品。忠実なだけでなく、危険地帯の臭いを嗅ぎ分け、未然に防ぐ勘は素晴らしい。ついに彼らは10人で1点を守りきった。
イタリア人気質の鼓舞
第二次世界大戦以前、ムッソリーニの時代にワールドカップを2度制したイタリア。現在は「セリエA」が、世界中からビッグスターの集まる最高の舞台として知られている。
更に、84年からの11年間でイタリアのクラブは、チャンピオンズ・カップで優勝4回(準優勝3回)、カップ・ウィナーズ・カップで優勝3回(準優勝2回)、またUEFAカップでも優勝5回(準優勝2回)という素晴らしい成績を残している。
中でもチャンピオンズ・カップでACミランは、89、90、94年と3回優勝。89年は決勝でステアウア・ブカレストを4-0とそれぞれ大差で破り、かつて黄金時代を築いたレアル・マドリー(スペイン)以上と激賞されている。
そのACミランを王者へ導いたサッキ監督が、代表チームでこれほど苦労するとは──。
試合の後、テレビ画面でR・バッジョ交代の理由を記者に聞かれたとき、サッキの顔が変わったが、私は彼の話よりも、かつてベアルツォット監督(82年優勝)が語ったイタリア気質──イタリア人は仲間の心を思いやる同情心を持っている。傷ついた、あるいは失敗した仲間を慰め、彼のためにやってやろうと思うのです──について考えた。82年の決勝西ドイツ戦でカブリーニがPKを失敗したとき、全員が彼を慰め、彼のために得点しようと努力していた。
サッキ監督はそうしたイタリア人気質が、試合に表れることを期待して、R・バッジョをベンチに入れさせたのかとも思った。
そんなサッキ監督の苦境を救ったのは、彼が揚げた攻撃サッカーではなく、イタリア伝統の守りの堅さだったことが、皮肉でもあり、おかしくもあったのだが…。
(サッカーダイジェスト 1994年9/14号より)