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大会を飾ったストイチコフの左足

 ここしばらくワールドカップ・ベスト4の常連だったドイツ。この強国の準々決勝での敗退は、米国大会での大きな話題となった。そのドイツを破ったのが、東ヨーロッパの小国ブルガリア。このチームの先頭に立ってゴールを量産し、チームを引っ張ったのがフリスト・ストイチコフという、左利きのストライカーだったのである。


試合を決めた一発

 ベルトホルト、ヘルマー、ブッフバルト、フェラー、クリンスマン、マテウス──この6人が作り、ジャンプしたカベを越えたボールが、ゴールネットに吸い込まれた。1-1。「ブルガリアにとって社会主義政権が倒れた以来の大事件」の始まりだった。

 7月10日、ニュージャージー州イーストラザフォードのジャイアンツ・スタジアムでの準々決勝、ブルガリア対ドイツ戦の75分、ドイツのペナルティエリア外8メートル、中央から右寄りの地点でのFKをストイチコフが決めたとき、ドイツのフォクツ監督は「カベの作り方が悪い」と思ったらしい。

 試合後、「カベを作った選手のジャンプが足らなかった」「GKイルクナーの反応が鈍かった」といったフォクツ監督の談話が伝えられている。最も警戒し、対策を積んだはずのFKにしてやられた残念さがにじみ出た発言だった。

 ビデオを見直してみると、ストイチコフのこのときのFKは、出だしが低く、非常に強いスピードのシュートだった。これがカベをギリギリに越えると、急激に落下していったから、守る側にはとても反応の難しいものだった。これは、ストイチコフのシュートの速さ(この大会での使用球は弾みが強くて、シュートのスピードが全体的に速かったといわれている)と、コントロールの良さをまず誉めるべきだろう。

 ドイツにとっては、このしばらく前に見事なパスワークからのシュートがバーに当たり、そのリバウンドをフェラーが叩き込んだのがオフサイドになったのが痛かった。チャンスの後に生じたピンチを決められたのだから、ショックも大きかったに違いない。

 一方、ブルガリアはこの同点ゴールで一気に調子づいた。何しろ、それまで主砲のストイチコフがコーラーにマークされて、ほとんど満足な動きができていなかった。いわば、たまっていたフラストレーションを爆発させたFKでもあった。

 その3分後の勝ち越しゴールは、右からのクロスをレチコフがヘディングシュートで決めたのだが、CKの後のこのクロスに対して、ヘディングの強いレチコフのマークに、彼より身長の低いヘスラーが付くハメになったところに、ドイツの守りの崩れがあった。言い換えれば、経験豊かな世界チャンピオンの乱れを誘発するほど、ストイチコフのこの1点は大きな影響力があったのだ。


西ヨーロッパでの経験

 ブルガリアは、東ヨーロッパのバルカン半島にある人口890万人、国土は日本の30%しかない小さな国。日本とは地理的に遠く、これまで関係も薄い。スポーツの世界でも、北隣のルーマニアや、西隣の、かつてのユーゴスラビアに比べると地味だ。

 サッカーも、これまでにワールドカップは5回も出場していながら1勝もしていない(6分け10敗)。オリンピックでも、ハンガリーやポーランドなど東ヨーロッパ諸国が優勝を重ねていく中で、銀メダル1、銅メダル1を獲得しただけである。

 ただし、日本との縁はなくはない。56年のメルボルン・オリンピックに日本が初めて参加したとき、ブルガリアは銅メダル。68年、日本が銅メダルを獲得したメキシコ・オリンピックで、ブルガリアは銀メダルを取っている。また、76年に来日して3試合を行った(2勝1分け)こともある。こうした日本との比較でも、我々よりは多少強いけれど、プロフェッショナルの世界では、なかなか上へは上がれない、というのがブルガリアのサッカーだった。

 その「無名」の彼らが、前回のイタリア大会のチャンピオン、92年ヨーロッパ選手権2位で、スター選手きらめくドイツ代表チームを2-1で破ったのだから、世界が驚いたのは無理はない。「第二次大戦以来、先の社会主義政権の崩壊に次ぐブルガリアのビッグニュース」という、ストイチコフの言葉は決して大袈裟なものではなく、隣国のセルビアでも大きな反響を呼んだという。

 今度の大会にブルガリアが出場できたのは、ヨーロッパ予選第6組最終戦でのどんでん返しだった。スウェーデン、フランス、オーストリア、フィンランド、イスラエルを相手にしたホーム・アンド・アウェー戦、最後の試合(93年11月17日)でブルガリアは2位をかけてフランスと対戦した。

 フランスは6勝1分け2敗、ブルガリアは5勝2分け2敗。フランスはホーム、パリでのこの試合に引き分ければよかった。しかし、タイムアップ寸前まで1-1だったのが、コスタディノフのゴールでブルガリアが勝利を収めた。

 フランスにとっては、日本のカタールの予選と同じような悲劇だったが、ブルガリア代表チームの最後までゲームを諦めない粘り強さは、米国での本体会にも続いていたのだった。

 「今度のチームには、西ヨーロッパでプロリーグの経験を持つ者が多い(13人)のが強みだ」というのがディミタリ・ペネフ監督の言葉だが、このドイツ戦も、GKミハイロフ(ムルハウス/フランス)、DFイワノフ(ヌシャテル/スイス)、フブチェフ(ハンブルガー/ドイツ)、キリヤコフ(レイダ/スペイン)、MFレチコフ(ハンブルガー/ドイツ)、バラコフ(スポルティング・リスボン/ポルトガル)、コスティノフ(ポルト/ポルトガル)、ストイチコフ(バルセロナ/スペイン)の西ヨーロッパ経験組に、ツベタノフ、ヤンコフ、シラコフといったブルガリアの名門クラブ「レフスキ1914」のメンバーで構成されていた。

 プロのハイレベルでの試合経験が、チームの戦術に大きな力を与えたといえるが、その中で、ストイチコフの存在は一際大きかったのはいうまでもない。


米国を惹き付けた男

 フリスト・ストイチコフは66年2月8日生まれ。ブルガリアの首都ソフィアの、レフスキと並ぶ強豪チーム、CSKA(中央陸軍クラブ=略称チェスカ)で活躍。若いうちから左足キックの正確さは定評があり、178センチ、74キロの頑健な身体と、鋭い突進力を生かしたシュートで、ゴール前の脅威となった。

 89〜91年には38ゴールを記録して、ヨーロッパでのリーグ最多得点者に与えられるゴールデンブーツ賞を獲得した。その後、スペインの金持ちクラブ、バルセロナが彼をCSKAから移籍させ、クライフ監督のもとストイチコフは、チームのスペインリーグ4連覇に貢献した。更に92年のヨーロッパ・チャンピオンズ・カップにも優勝し、ヨーロッパ・ナンバーワンを手にした最初のブルガリア人となったのだ。

 その年の12月13日、私達は国立競技場でのトヨタカップで、彼がビューティフルゴールを決めるのを見た。相手のパスを取ったグァルディオラからのボールを足元に受けたストイチコフが、相手DFが接近しないのを見て、ゴール前20メートルから見事なシュートを決めたのだった。

 ボールを止め、ステップを踏み代え、左足で押し出すという、キックするまでの一連の動作のなんと安定していること。狙ったとおり、ゴール左隅へピシャリと決めるスイングの強さ、ボールをとらえるときのインパクトの正確さは、まさに脱帽モノだった。

 しっかりした技術、生まれ付いての頑強な身体、負けず嫌いの正確、激しい闘志を持つストイチコフは、スペインリーグでも、ときにレフェリーに食い下がり、退場処分を受けることもあった。今度の大会で比較的冷静だったのは、チーム内で最もビッグな試合を経験してきた彼の、リーダーとしての責任感だったのだろう。

 ブルガリアは、ナイジェリア戦で相手の個人的な強さに不覚の大敗を喫した後、ギリシャ戦でも、初めは互角の形勢だったが、2つのPKを2本とも彼が決めてから、次第にチームの調子がよくなったのだった。

 プレースキックを正確に蹴ることのできるストイチコフがいることで、PKは必ず1得点、FKは3本あれば3本とも相手にとって肝を冷やす場面となる。このことは、ブルガリアにとっての、何よりの強味だった(イタリアとの準決勝でも、PKで1得点を決めている)。

 アルゼンチン戦での鋭い突進から、左足の先端で突くようにして決めたドリブルシュートは、マラドーナのいなくなった南米の強豪の士気をくじき、ブルガリアの二次ステージ進出を確かなものにしたのだが、こうした得点だけでなく、ストイチコフの左足は、攻撃のチェンジ・オブ・ペース、左から右へのクロスパスを配して、このゲームのカウンター攻撃の効果も上げていた。

 準決勝でイタリアに敗れたブルガリアは、中2日置いてスウェーデンとの3位決定戦を行った。パサディサのローズボール・スタジアムに集まった観客は、ニューヨークでの激戦の後、長い飛行機の移動で疲れたブルガリアがスウェーデンに完敗するのを見ながら、それでも尚、ストイチコフがボールに触れると、彼のゴールを期待した。チームは3位になれなくても、彼が1得点を加えてサレンコ(ロシア)と並ぶ得点王になって欲しい──と願っていたのだった。

 試合が終わり、ブルガリア選手の一番最後にフィールドから去って行く彼に、バックスタンドの観衆はスタンディング・オベーションで拍手を贈った。ブルガリアという、東ヨーロッパの地味な国のプレーヤーに、米国人が、これほど惹き付けられたことは、かつてなかった。

 「ロサンゼルスタイムス」のドワイヤー記者はストイチコフのような個性的魅力の持ち主はハリウッドでも成功するだろう──と語っていたが…。

(サッカーダイジェスト 1994年10/5号より)

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