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輝いたストライカー、クリンスマン

 この大会の楽しみの一つは、多くの優れたストライカーを見ることだった。ブラジルのロマーリオ、ベベットを始め、アルゼンチンのバティストゥータ、カニーヒア、ドイツのフェラーやクリンスマン…。彼らは数々のゴールシーンを披露してくれた。しかし、ブラジル勢を除いて、彼らが早くに姿を消したのは残念で仕方ない。


苦悩をもたらす大活躍

 「点を取って評判が上がるのは良いが、これで僕の移籍料をクラブが吊り上げるかもしれない。そうするとASモナコから出ていくのが難しくなりはしないか、と感じている」

 94年米国ワールドカップの一次リーグC組でドイツの首位が決まったとき、「好調クリンスマンの複雑な心境」という記事を見た。

 ユルゲン・クリンスマン。スリムでハンサムで、金髪をなびかせて疾走する、このストライカーは一次リーグの3試合で4ゴールをマークした。30歳に後1カ月、もう下り坂という世界を一気に覆す活躍だった。

 記事の内容は、所属するASモナコから(3年契約の2年が終わったところ)他のクラブへの移籍を希望していたクリンスマンにとって、これが移籍料アップにつながり、彼を欲しいというクラブがしり込みするのではないか懸念している──というものだった。

 晴れ舞台での自分の好プレーを素直に喜べないところに、プロフェッショナルの難しいところがある。そのことをこの短い談話は物語っているが、同時にワールドカップでのクリンスマンはそれほど素晴らしく、90年イタリア大会のときのプレーを思わせる見事な動きでゴールを生みだしたのだった(大会後イングランドのトッテナム・ホットスパーが220万ポンド=3億2千万の移籍料で彼を獲得し、プレミアリーグでプレーした)。


素晴らしきゴールシーン

 6月17日、シカゴの第1戦は開幕試合特有の重い動きで、前回チャンピオンのドイツが1-0でボリビアを破ったという程度の印象しかない。その中で、唯一ゴールを挙げたのはクリンスマンだった。

 61分にマテウスがリベロの位置から、相手の浅いDFラインの裏へロブのパスを送り、落下点でヘスラーが、相手GKが飛び出してくるのを胸のトラッピングでかわした。そのボールが転がるところへ、後方から走り込んだのがクリンスマン。誰もいないガラ空きのゴールへシュートを蹴り込んだ。それはまさに、181センチのスマートな身体付き、ゲルマン民族らしい長い足とその疾走が生んだ「クリンスマンのゴール」だった。

 第2戦のスペイン戦は、ゴイコエチェアの右からのクロスがそのままゴールインしてリードを奪われたが、48分のクリンスマンのヘッドで同点にして一息付いた。

 ヘスラーのFKをクリンスマンが飛び込むというのはドイツの得点パターンの一つだが、ジャンプのタイミング、相手の前へ身体を持っていく強さに、改めて彼の才能を感じた。

 第3戦の韓国戦は、暑さでヨレヨレになった後半のドイツを追い詰めた韓国の印象の方が強かった。だが、前半のドイツのたたみかける攻撃も見物だった。

 特にクリンスマンの1点目は見事だった。ヘスラーの右からのクロスを受けて、ターンしてシュートしたのだが、右外側からの低いボールを右足アウトで浮かせ、後ろへ向いて反転しながら、その浮いたボールを左足のボレーで蹴った。身体のヒネリの巧さ、左足の振りの速さを披露したその一瞬は、まさに彼のプレースタイルそのものだった。

 7月2日、二次ステージ1回戦のベルギー戦は雨が降って涼しく、両チームともこのコンディションの中で好ゲームを演じた。しかし、後半のベルギーのウェーバーに対するプレッシングが問題になり(ファウルをレフェリーが見逃し、後にFIFAがこのレフェリーを処分した)、試合よりこちらの方が大きなニュースとなった。

 このときのドイツの攻めは、誠にドイツらしい、速いテンポの大きな動きが混ざった、サッカーの持つスケールの大きさを見せてくれた。

 ベテランのフェラーの2得点もスタンドを沸かせたが、クリンスマンの突進から生まれたチャンスと、それを防ぐベルギーDFの健闘、GKプロドームのセーブは、今大会の一つのスリルといえた。

 チームの2点目となったクリンスマンのゴールは、フェラーがドリブルしてクリンスマンに渡し、彼のヒールパスを受けてフェラーが突進、2人目のDFをかわしたが、そのドリブルが大きくなり、最後はクリンスマンが左足のシュートで決めたものだった。

 ペナルティエリア左隅から左足インステップで叩かれたボールは、右ポストギリギリへ飛び込むビューティフルシュートとなったのだ。


決勝に出てきてくれたら

 ユルゲン・クリンスマンは、東京オリンピックの年、64年7月30日にドイツ南部のシュツットガルトに近い小さな町、ゲッピンゲンで生まれた。父親はパン屋さん。ユルゲン坊やは体操やバレーボールも上手なスポーツ少年だったというから、ヘディングのジャンプやドリブル、シュートでの早いターンの素地はこの頃始まったのかもしれない。

 もちろん一番好きなのはサッカーで、特に10歳の頃には1試合で2点取れないときは泣いて悔しがったという。9歳の時に1試合16ゴール、ユースチームでの4年間で250ゴールという記録は、彼の非凡な得点能力を示している。

 クリンスマンはシュツットガルト・キッカーズでのプレーが認められ、VfBシュツットガルトに入る。ブンデスリーガに姿を現したのが84年、20歳の時だった。最初のシーズンに15得点(32試合)を上げ、4年目(87-88年)には19ゴールでリーガ得点王になっている。ブンデスリーガでの5シーズンで79得点(156試合)という実績を買われ、インテル・ミラノへ移ったのが89年だった。

 「イタリアへ出て、自分はまだサッカーで学ばなければならないことを知った」というように、世界のトッププレーヤーの集まるセリエAで彼は大きな刺激を受ける。ACミランのフリットやファン・バステンも大きな励みとなった。

 90年イタリア大会は心身共に充実し、世界に真価を問う大きなチャンス。二次ラウンド1回戦の対オランダ戦での動きは、ストライカーとしてのクリンスマンの魅力、クリンスマン・スタイルを強くアピールした。

 2トップを組むフェラーがライカールトと口論して、両者が退場。10人ずつとなったこのゲームで、最高殊勲選手は疑いもなくクリンスマンだった。

 彼をマークするライカールトがいなくなったこともあったが、クリンスマンのオープンスペースへの動きと、その速さ、相手と競り合うときの加速ぶりはレーシングカーさながらだった。

 兄がスプリンターという、元々足の速い血筋なのだろうが、一人少なくなったこの試合での彼の速さは、それを生かすテクニック、判断をともない、私に現代サッカーの面白さ、2トップ、あるいは1トップの試合の楽しさを教えてくれた。

 強敵オランダを挫いたクリンスマンの先制ゴールは、左サイドへ持ち上がったブッフバルトからのライナーのクロスを、相手DFより一瞬速くニアサイドで捕らえ、左足ボレーでゴール右隅に蹴り込んだもの。ライナーのクロスに併せた電光のような動きと、左足のスイングと身体のヒネリは、ビデオのスローで繰り返し見ても飽きることはない。

 イタリア大会は、このオランダ戦の疲れが、後々に残ったのではないか──そう思わせるほどの彼の動きだった。

 この大会の後、彼はインテル・ミラノで更に2シーズンを過ごした後、ASモナコに移った。フランス語、英語、イタリア語を上手に話す彼は、ドイツへ帰るよりも、新しい、未知の国にプレーの場を求めた。

 ASモナコでの最初のシーズンは19ゴールを上げて順調であったが、やがてベンゲル監督の戦術に不満を持つようになった。クリンスマンにとって今回の米国大会は、彼自身の進路にとっても大きな意味を持っていたのだった。

 残念なことに、ドイツ代表はチーム自体に抱える問題などがあってベスト4に残れず、私達はクリンスマンという、速さとテクニック、パスのセンスを兼ね備え、走って受け、受けて走り、シュート位置へ疾風の如く走り込み、怒濤のようなジャンプヘッドを叩き込むストライカーを早い時期に見ることができなくなってしまった。

 クリンスマンがパサディナのローズボウルに現れていれば、ソウル・オリンピックでの対決以来、ブラジル対ドイツ、ロマーリオ対クリンスマンの対決が見られたのに──。

(サッカーダイジェスト 1994年10/19号より)

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