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イタリアの興廃を背負ったR・バッジョ
「ロベルト・バッジョ抜きではイタリア代表を考えることはできない」とは、名将トラバットーニ監督の言葉だが、今回の米国大会でのイタリアは、このR・バッジョのゴールで絶望の淵から這い上がり、そして、R・バッジョのシュート失敗でワールドカップを逃した。
ナイジェリア戦で決勝点
94年7月5日、ボストンのフォクツボロ・スタジアム。二次ステージ1回戦のイタリア対ナイジェリア戦は、ナイジェリアのリードで後半も40分を過ぎ、イタリアは敗色濃厚だった──。
一次リーグE組の初戦、イタリアはアイルランドに0-1で敗れ、第2戦のノルウェー戦ではGKパリュウカの反則退場で10人となったが、何とか1-0で勝利をものにした。驚いたことに、サッキ監督はパリュウカに代えてマルケジャーニを投入するため、R・バッジョを外した。
この決断は、失敗すればチームがガタガタになるほどの賭けだった。しかし、もう一人のバッジョ、同じユベントスのD・バッジョ(現在はパルマ)がヘディングで決勝点を上げて、この危機を切り抜けた。
第3戦のメキシコ戦も薄氷を踏む危うさだった。マッサーロの得点でリードしたが、同点に追い付かれてしまい、結局3試合で1勝1分け1敗、E組の3位という際どい成績で二次ステージに進んだ。
辛うじて生き残ったイタリアにとって、中6日の休養を取ったこのナイジェリア戦は、バレージ(ひざの故障)を欠いてはいたが、世界最強のリーグ、セリエAのスター軍団の名誉にかけて、その実力を世界に示さなければならない試合だった。
しかし、前半の再三のチャンスもゴールに結び付けられず、逆に27分、相手の右CKをヘディングで蹴った後、落下したボールがマルディーニの足に当たってバウンドし、それをアムニケにシュートされる。一度、ニアポストでヘディングのためにジャンプし、落ちてきたボールのリバウンドに素早く反応したアフリカ人特有のプレーだった。
リードされたイタリアは、後半始めにベルティとの交代でD・バッジョを、シニョーリに代えてゾーラを送り込んだ。しかし、そのゾーラがわずか12分間プレーしただけで、レッドカードをもらう。スタンドから見ていて「おやっ」と首を傾げたくなるレフェリーの判定ではあったが、それ以降、イタリアは10人でのプレーを強いられてしまった。
人数の多いナイジェリアの守りは安定し、イタリアはボールをキープし、攻めながらも、徐々に疲れが見え始めてきた。
相手のボールを奪ってから、短いパスを交換して展開するイタリアの攻撃は、さすがに上手いつなぎではあっても、シュートレンジに入るところでラストパスが出ない。選手間の息が合っていなかった。
これでイタリアが姿を消すのではと、誰もが思い始めたときだった。右のスローインから突如としてチャンスが生まれる。
タテパスを受けたムッシがドリブルし、相手DFに奪われかけたのを取り返して、ゴール正面にいるR・バッジョへ──。
そのパスをダイレクトで右足インサイドで叩いたR・バッジョのシュートは、懸命にダイブするGKの右手の先をすり抜けて、ゴール左隅に吸い込まれていった。
1-1、同点となった。これで勢いづいたイタリアだったが、計30分の延長戦は人数が足りないだけに苦戦は必至だった。
ボールを取っても、すぐには攻めに出ないでゆっくり回し、時間を稼ぐ。勝つためには得点しなければならないが、あまりに早くにリードを奪うと、残り時間を持ち堪えられない。これがイタリアの作戦だった。
老練というか、イタリアならではのゆったりとしたボール回しにナイジェリアがつられて、自分達のボールのときもペースダウンしてしまうのは、見ていて興味深かった。
延長12分、D・バッジョが左隅へ開いたベナリーボにパスを出す。ベナリーボはゆっくりキープして相手DFを伺う。そこへR・バッジョが近づいてボールを受けた。 次の瞬間、ベナリーボはゴールへ向かってダッシュ。R・バッジョがフワリとしたボールを送った。爪先ですくい上げたボールは高く上がり、ベナリーボを追ったナイジェリアの一人が後方からのしかかってきて、イタリアの選手二人が倒れた。
レフェリーは即座にPKを宣言した。
キッカーはR・バッジョ。右足インサイドのシュートは左ポストの内側に当たり、逆に動いたGKを後目にゴールに飛び込んだ。
大金星をほぼ手中にしていたアフリカ・チャンピオンだったが、R・バッジョの2ゴールで歴史的な勝利を逃し、イタリアは66年イングランド大会の悪夢(北朝鮮に敗戦)を繰り返さずに済んだ。
イタリア大会での輝き
ロベルト・バッジョは北イタリア、ビチェンツァに近いカルドーノで生まれ育った。「一日のうち8時間は眠り、15時間半はサッカーをしようかと考えたんだ」とR・バッジョは振り返る。一日の3分の1が睡眠、残りの3分の2がサッカーだった。
15歳でビチェンツァのクラブに入り、3部(セリエC1)で3年間プレーした後、フィオレンティーナに迎えられる。しかしひざを故障し、セリエAでの本格的スタートは87-88シーズンとなった。
スリムで速く、抜群のテクニックを持ち、シュートもパスも上手いR・バッジョに各チームが注目し始める。代表チームのビチーニ監督も、88年11月16日のオランダ戦からアズーリのメンバーに加えた。
90年ワールドカップでは、開催国という有利さとプレッシャーの中で3位に入ったがR・バッジョは一次リーグの第2戦まで控え選手、第3戦のチェコスロバキア戦でビューティフルゴールを決め、二次ステージ1回戦のウルグアイ戦、準々決勝アイルランド戦ではスキラッチと2トップを組んだ。
準決勝は復調の兆しを見せていたビアリとスキラッチのFWコンビだったが、マラドーナが率いるアルゼンチンにPK戦で敗れた。イングランドとの3位決定戦はR・バッジョ、スキラッチのコンビが復活、R・バッジョは1得点を決めて、その実力を世界にアピールしたのだった。
イタリア・ワールドカップが行われた90年から、R・バッジョはユベントスに移る。フィオレンティーナには、トリノの金持ちクラブが提示した20億という移籍金に抵抗する力はないと知りながらも、サポーターはどれほど残念がったことか。
この年のフィオレンティーナとの対戦で、R・バッジョがPKのキックを拒否して監督を怒らせたのも、そうしたサポーターへの配慮だったのか──。
攻撃を組み立てるプレーメーカー(日本でいうゲームメーカー)として、あるいはリーグの得点ランキングで常に上位を占めるストライカーとして、彼は二つの能力を発揮してユベントスのUEFAカップ優勝(93年)に貢献、セリエAで相手側サポーターからも賞賛されるほどのプレーヤーになった。
次の目標はフランス大会
ナイジェリア戦で死の淵から甦ったイタリアは、次の準々決勝スペイン戦でも苦闘の末2-1で勝つ。勝ち越し点はR・バッジョ。続く準決勝でも彼のシュートは冴え、2ゴールを奪った。左から中央へ切れ込むドリブルで二人を抜き、イワノフの背後からゴール右ポストギリギリに通した1点目のシュートは、まさに絶品だった。2点目の右斜めからのシュートも左ポストいっぱいで、GKミハイロフも防ぎようがなかった。
ただし、この決勝への戦いの中でR・バッジョは再び足を痛める。
迎えた決勝戦は、バレージの復帰したイタリアの守りが光ったが、攻撃は散発的で、ブラジル優勢のうちに0-0で90分が過ぎた。延長の30分が過ぎても決着が付かず、PK戦で結局、ブラジルが勝った。
最後のキッカー、R・バッジョのシュートがバーを越えていったシーンは、今大会を「ある意味」で表していたが、私はそれよりも、大会前に「自分の夢はワールドカップの決勝の90分、最後の瞬間にゴールすること」と語っていた彼が、延長戦でノーマークになりながら、いつものピンポイントシュートではなく、GKタファレルの正面に蹴ってしまったことが悔しかった。
最も、あのシュートが入ってイタリアが勝っていれば、世界はあるいは白けていたかもしれない。彼のようなシュートの名手がいくら足が痛いといっても、あれほどイージーなシュートを失敗したのは、やはり運命としか言いようがないだろう。
故障に悩みながら今大会で大きな扉を開いたR・バッジョは、98年フランス大会を目指すという。今の精密さに、次は何を加えて登場するのか。彼の成長を4年間、じっくり眺めていきたいと思う。
(サッカーダイジェスト 1994年10/26号より)