賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >オランダの大砲──デニス・ベルカンプ

オランダの大砲──デニス・ベルカンプ

 デニス・ベルカンプのデニスという名は、マンチェスター・ユナイテッドのかつての名FWデニス・ローにあやかろうと、彼の両親が名付けたという。ローのように攻め上がりの得意なベルカンプは、オランダ戦の後半にその本領を見せたのだが…。第2のクライフ、第2のファン・バステンと期待された94年の彼を振り返ってみよう。


欧州選手権を騒がせた男

 94年ワールドカップは、ブラジルが安定した力を見せ、決勝へとコマを進めていった。しかし、途中ブラジルが最も苦戦を強いられていたのが、準々決勝のオランダ戦だった。前半を0-0で終え、後半は62分までに2-0とリードを奪うが、その後2-2の同点に追い付かれ、タジタジとなる場面も出てくる。最後はブランコのFKで3-2として、準決勝へコマを進めた。

 この、ブラジルを震撼なさしめたオランダの反撃の口火を切ったのが、デニス・ベルカンプ(以下ベルカンプ)だった。

 ベルカンプはこの大会前から、ロマーリオやR・バッジョなどと並ぶ、注目のプレーヤーの一人だった。ファン・バステン、ライカールト、フリット、クーマンら、88年にオランダが欧州チャンピオンになった世代よりも少し若いグループの代表格として、オランダ上昇の原動力と見られていたのだ。

 ベルカンプの国際的な大舞台デビューは、92年にスウェーデンで行われた欧州選手権だった。

 この大会は、90年ワールドカップで不調だったフリット、ファン・バステンが再び調子を取り戻し、強国オランダの再来を告げるものとなった。優勝はデンマークと、予想外の結果となったが、オランダは一次リーグで2勝1分け、準決勝でデンマークにPK戦で勝ちを譲るが、90分間の試合では内容的に負けてはいなかった。

 ベルカンプは全試合に出場し、スコットランド戦、ドイツ戦、デンマーク戦で各1得点ずつを決め、ブロリン(スウェーデン)、ラルセン(デンマーク)、リードレ(ドイツ)らとともに、3得点でランキング1位となっている。


ヨハン・クライフが見出す

 1969年5月10日生まれの彼は、このとき23歳。ちょうどファン・バステン(64年10月31日生まれ)が88年に欧州チャンピオンとなったときと同じ年だった。

 アムステルダムで育ち、ビルスクラントSVL、WVHEDWなどのクラブでプレーをしていた。やがてアヤックスのスカウトによって、名門クラブ、アヤックスのジュニア・チームに加えられる。86年12月に、17歳のまだ弱々しい身体付きであった、ジュニアの二軍にいた彼は一軍に上がる。

 彼を一軍に登用したのは、当時アヤックスの監督だったヨハン・クライフだ。ベルカンプのポジションは右のウイングだった。若手起用に大胆なクライフは、87年のカップ・ウィナーズ・カップ決勝戦の後半(66分)に、ビチヒェの交代として彼を大舞台に立たせている。

 87-88シーズンからレギュラーとなり、次第にストライカーとしての才能を発揮しはじめ、90-91シーズンには25得点(33試合)をゲットし、PSVアイントホーフェンのロマーリオ(現バルセロナ)と並んで、リーグの得点王となる。その後のシーズンも、24ゴール、26ゴールと連続してトップ・スコアラーの座を占める。

 ヘディングが強く、ダッシュが早く、スキルフルなことから、オールラウンド・プレーヤーという評価が、欧州のマス・メディアの間に広がっていった。

 アヤックスは元々若手育成の上手なクラブだ。90年に、86年から4年間PSVに奪われていたリーグ王座を奪回したときのメンバーの半数が、ベルカンプを初めとする21歳以下の選手だったのもこのような理由による。このため若手の中には、アヤックスで力を付けた後、スペイン、イタリアなど南欧のクラブへ高報酬を求めて移籍する者が何人かいた。しかし、彼は名前が売れはじめてもしばらくはアヤックスに止まっていた。

 93年になって、ようやく彼はインテル・ミラノへ移籍し、ヨンクとともにセリエAで選手生活を開始する。


本当の輝きはこれから

 今回のワールドカップで彼は、攻撃の中核となって一次リーグから出場した。ただし、このチームは92年の欧州選手権のときのチームに比べると悩みを抱えていた。ファン・バステンとフリットという2人のベテランがいないのだ。

 2年前のベルカンプは2人のスターの間を縫って走り、ドリブルし、シュートをすればよかった。しかし、今度の大会ではそうはいかず、得意の2列目からの突破ができなかった。そして、ファン・バステンのポジションに入る適任者がいないまま大会に入り、第1戦、第2戦はR・デ・ブールが起用された。そして、第3戦と二次ステージの1回戦、アイルランド戦でベルカンプが務めた。

 このアイルランド戦での先制ゴールは、オフェルマルスが相手DFのボールを取って一気にゴールラインめがけて走り、速いクロスを出したのを、後方から走り込んだベルカンプが相手DFに寄ってシュートしたもの。ベルカンプ本領発揮のシーンだった。

 一次リーグ第3戦のモロッコ戦では、ワールドカップ初ゴールを決めた。左サイドからファン・フォッセンがドリブルで持ち込み、短いパスを中へ送ったのを相手DFがチェック。そのボールを逆に奪って、左足でゴール左隅に流し込んだ。

 7月9日、ダラスでの準々決勝、ブラジル戦は前半から息の詰まる展開だった。ブラジルが中盤を厚くし、オランダのMF陣のボールキープを潰しにかかり、じりじりと追い込んでいった。

 オランダはオフェルマルスとファン・フォッセンからの突破でチャンスを作ろうとした。しかし、俊足のオフェルマルスはベテランのブランコを単独で抜こうとするものの、ベテランらしいプレーに時間を稼がれ、その間にMF陣に囲まれてしまう。リーチの長いファン・フォッセンも、ジョルジーニョを簡単には外せなかった。

 ベルカンプ自身は後方からのボールを受ける形となり、相手DFの密着マークに手こずっていた。こういうマークをしているときのブラジルの選手の手の使い方、身体の締め方はまことに巧みで、シャツを引っ張ったと思えば手を離し、手を離しているかと思えば引っ張るという、彼らでなければできない技術(明らかな反則だが)を持っていた。

 これにベルカンプも悩まされていた。それでも彼は2つのシュートを放っている。1本は左FKからのヘディングで、ジャンプは高く、頭はボールをとらえた。しかし、背後の相手DFの上手い接触プレーにあって、ボールは高く上がってしまった。

 もう1本は、相手DFの処理がおぼつかないところをかっさらって、ワンタッチで右足でボールを止め、それをすぐに蹴ったものだった。右ポストの外に出たが、私は双眼鏡で見ながら、改めてオランダの長身選手達のボールを扱う技術の高さに感心した。

 後半に入って、ブラジルが52分、62分に得点して先攻する。このゴールがオフサイドだったかの問題は以前に触れたが、その2点目の直後に、ベルカンプの1点が生まれた。左サイドでロングスローを送ってペナルティエリアに入り、DFが蹴りだそうとするのを身体にあてて押しだし、右足のボレーでゴールに押し込んだ。

 ここでオランダは不調のライカールトを引っ込め、R・デ・ブールを投入した。彼がトップに出ることでベルカンプは2列目に下がり、ここからパスが出はじめ、ドリブル突破も見られるようになった。

 オランダの中盤が生き生きとし、それまで勢いに乗って制圧していたブラジルのMF陣は、徐々に動きが鈍ってしまう。巧みな接触プレーで、簡単にはかわされなかったドゥンガがヨンクの反転に振り切られ、シャツを引っ張りイエローカードを出される。ドゥンガのような頑張りの利く試合巧者が、誰の目にも明らかな反則を犯すのは、よほどのことだったのだろうか。

 76分に左CKをロイが蹴り、その低いクロスをビンターが飛び込んで、素晴らしいヘディングを叩き込んだ。これで2-2としたが、このCKにはベルカンプがドリブルで2人を抜き去り、ペナルティエリア内に侵入してキックしたボールが相手DFにあたってゴールラインを割ったという過程がある。

 同点に追い付かれて気を取り直したブラジルと、尚いきり立つオランダとの、その後の15分間はまことに激しいぶつかり合いとなったが、最終的にはブランコのFKの能力がものをいった。

 選り抜きの精鋭たちを集めたブラジルに対し、オランダは大会直前まで監督と選手のゴタゴタがあり、フリットは結局チームに加わらなかった。こうした背景も響いて、オランダは必ずしも十分な準備をしたとはいえず、ベルカンプは能力の全てを発揮するところまでいかなかった。

 今回の大会で活躍したストライカーは、年齢の高い選手が多い。25歳という肉体的には頂点に近い時期に、ベルカンプはもう一段上の評価を得ることができなかった。だが、イタリアで、これからそのプレーをどのように伸ばしていくのか、期待していきたい。

(サッカーダイジェスト 1994年11/9号より)

↑ このページの先頭に戻る