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バレージの後を担う男──マルディーニ

 パオロ・マルディーニは米国ワールドカップで、延長2試合を含む7試合、計690分にフル出場した。「アイアンマン」と尊敬されただけでなく、ワールドクラスのDFとして、更に評価を高めた。また、フェアプレーの精神はミラノのファンを惹き付けて放さない。バレージがいなくなるイタリアで、ますます彼への期待は高まる。


試練のノルウェー戦

 今回のワールドカップで、アリーゴ・サッキ監督は何度かピンチに襲われた。中でも最大のピンチが、一次リーグE組第2戦のノルウェー戦だった。

 GKパリュウカがエリア外で手を使ったため退場処分となった上、後半始めにキャプテンのバレージが負傷で戦列を離れてしまったのだ。第2GKのマルケジャーニ投入のために、R・バッジョを交代させるという「非情」の決断の裏には、10人の不利で戦うためのカウンター・アタックという図式がサッキの頭にはあったはずだ。ところが、その図式の要となるバレージを欠くことになってしまう…。

 しかし、やはりイタリアのディフェンスは堅かった。バレージに代わって起用されたアポローニとコスタクルタをセンターに、右にベナリーボ、左にマルディーニを配した4人のバックラインは、その後20分間、ノルウェーの攻めに耐え、190センチを越える長身選手との空中戦にも負けることはなかった。

 バレージからキャプテンマークを受けて、左腕に白いバンドを巻き付けたマルディーニは、相手の攻撃をパーフェクトに押さえただけでなく、守から攻へ移るときにはスペースを生かした、巧みなテクニックを見せていた。

 一人少ないため、最終ラインからむやみに飛び出すわけにはいかない。だが、彼が左サイドを上手く使うことで攻撃に余裕ができ、DFラインから前線へのパスが効いてくる。

 69分のD・バッジョのゴールは、シニョーリのFKからだったが、そのFKはディフェンスからのパスをシニョーリが受けるときに、相手DFホーランがファウルしたことから生まれたものだった。

 このFKのときに、サッキはカジラギに代えてマッサーロを起用する。これがピタリとはまる。ヘディングの強い彼がファーポストに、長身のマルディーニが正面に立ちはだかって相手をけん制し、D・バッジョがニアサイドでシニョーリのキックに合わせる。ボールはネットに吸い込まれていった。

 しかし、1-0とリードしてからの21分間の戦いはとても苦しいものだった。マルディーニが負傷し、場外で治療を受けている2分間は9人で戦い、彼が足を引きずりながら復帰した後も、一方的に押し込まれた。バレージとともにACミランで、あるいはイタリア代表で多くのゲームを勝ち取ってきたマルディーニにとって、このノルウェー戦は優れた先輩を欠きながらの、非常に苦しいゲームだったに違いない。


カブリーニの後継者

 パオロ・マルディーニは1968年6月26日生まれだから、この大会の最中、つまりノルウェー戦の3日後に、満26歳の誕生日を迎えている。

 父親のチェザーレ・マルディーニは、1960年代のACミランのプレーヤーだった。1963年にトラパットーニ(バイエルン・ミュンヘン監督)やジャンニ・リベラ、あるいはブラジルのストライカー、アルタフィニらとともにチャンピオンズ・カップで優勝したとき、チームのキャプテンを務めていた。ちなみにこのときの決勝の相手が、アウグストやエウゼビオのいたベンフィカだった。あのレアル・マドリーの黄金時代の後2年続けてタイトルを保持していたチームである。

 ACミランによって欧州のクラブ・チャンピオンのタイトルが、初めてイベリア半島の外へ持ち出されたときの、中軸選手だった。

 選手生活を終えてからはコーチとなり、現在もイタリア代表U-21のチームを指導しているが、そうした父親に育てられ、小さいときからサッカーに親しんできたパオロが、ACミランに入るのも自然の成り行きだった。

 最も、そのステップを駆け上がるスピードは、自然というにはいささか遠かった。16歳で一軍メンバーに入り、1985年1月のウディネーゼ戦に起用される。これがセリエAでのデビュー戦となる。このシーズンは1試合だけだったが、次の85-86シーズンには27試合に出場して、レギュラーの地位を確保した。以来、ACミランの左サイドバックはマルディーニと決まったのだった。

 テクニックに優れ、スピードがあり、相手との駆け引きにもそつがない。しかも、チャンスと見ての攻め上がりも上手い。このようなマルディーニに対し、彼よりも8歳年長のバレージは厚い信頼を寄せるようになる。やがてオランダからフリットを迎えて、87-88シーズンにACミランはリーグ11回目の優勝を果たす。バレージには9年ぶり2回目、マルディーニには初めてのチャンピオンだった。

 以来、ACミランの栄光とともに、彼は左サイドでの存在を強烈にアピールした。イタリアではこのポジションにいた有名選手として、1960年代のインテルに在籍していたファケッティがいる。彼は70年ワールドカップ準優勝、更には74年大会まで代表選手として活躍し、カテナチオの固い守りと、カウンターに出るときのサイドバックの重要性を世界中に広めた。

 そして、このフルバックという地味なポジションに光をあてたファケッティの後を継いだのが、78年ワールドカップに登場したユベントスのカブリーニだった。

 陸上競技の選手だったカブリーニの突破は強引というのではなく、ソフトでスピーディーに扱うボールタッチと、ボールを持つ相手を追い込む巧さがあった。アルゼンチン大会で見せたこのプレーは、見るものを感嘆させた。

 82年のワールドカップ・スペイン大会でのイタリアの優勝は、もっぱらパオロ・ロッシというストライカーの得点感覚によって達成できた部分が大きいといわれているが、ブラジルやアルゼンチンといった強チームを相手に左サイドからの巧みな攻めを作ったカブリーニの存在を見落とす専門家はいなかった。

 マルディーニは、ファケッティのような長身と、カブリーニを思わせる柔らかさ、両者のタフさ、そしてイタリア人のディフェンダー特有の巧みさを備えている。左のキックは強く、ヘディングは守りではもちろん、攻めでのFKのときも相手の脅威となっていた。


鉄人のフェアプレー

 90年のイタリア大会は、一次リーグから準決勝までの5試合を無失点で進んだイタリアが、準決勝のアルゼンチン戦で1回だけゴールを割られ、PK戦の末に敗れた。その時、最終ラインを構成していたのが、ベルゴミ、フェリ、バレージ、マルディーニだった。

 94年の米国大会では、サッキがACミラン在任時代に完成させた「フラット・フォー」の守備ラインで戦った。スイーパーをマン・ツー・マンのマーカーの後ろに置く、それまでのカテナチオ戦法から脱皮して、積極的にラインを押し上げていく方法を採った。

 当然、それはタソッティ、コスタクルタ、バレージ、マルディーニのACミラン勢によって実戦された。バレージが負傷して欠場した後の4試合は、マルディーニがキャプテンを代行し、二次ステージに入ってからは、コスタクルタとともに中央の守りを固めた。

 ブルガリアとの準決勝では、ストイチコフのスピード、レチコフの突進をマルディーニは見事に押さえた。私のメモでは後半だけで、6回の空中戦に全て勝ってゴール前からボールを叩きだしたが、そのピンチでのクリアでも、味方へ的確にボールを渡し、ときにはR・バッジョへの効果的なパスとなって相手を脅かしていた。

 決勝のブラジル戦にはバレージが復帰して素晴らしいプレーを見せたが、彼がチームに戻るまでの期間をR・バッジョとともに支えたのもマルディーニだった。

 サッキは米国大会の前に「イタリア代表には誰もが認めるワールドクラスの選手が3人いる。これが強味だと思う。この3人とはバレージ、R・バッジョ、マルディーニだ」と語っていた。

 26歳の働き盛りのマルディーニにとって大きな勲章となったのは、イタリア大会以来、本体会14試合に連続してフル出場していることだろう。イタリア大会では延長が1回あって合計660分、米国大会は2回の延長で690分、計1350分という長時間だ。

 カテナチオ以来、イタリアの選手は守備の能力が高い。FWのマッサーロにしても、MFのD・バッジョ、ベルティにしても、日本のサッカーを見た目からは驚くほどのものを持っている。同時に日本人選手の守備動作の中に、かなりのファウルも含まれている。

 しかし、パオロ・マルディーニはタフな守りをするけれども、ファウルが実に少ない。彼が戦った米国での690分で犯したファウルは8回だけ(イエローカード1回)。むしろ相手にファウルされたのが13回もある。これは、相手のボールを奪いに行く際の間合いやタイミング、読みが良いこと、また奪った後のミスが少ないこと、などによるが、こうしたフェアプレーが、ミラノきっての人気選手に彼を仕立て上げているようだ。

 バレージの代表引退が伝えられるこれから、「欠点の無いのが欠点」といわれるマルディーニへの期待はますます強くなることだろう。

(サッカーダイジェスト 1994年11/23号より)

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