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「速さ」で新大陸を飾った男──ベベット

 米国大会でロマーリオとともにブラジルの攻撃を担ったのが、ベベット(赤ん坊)という愛称で呼ばれる30歳のプレーヤーだ。驚くほどのスピードと試合展開を読む冷静さを持ち、重要な局面でのゴールでブラジルを優勝に導いた。大型選手がひしめく今のサッカーにあって、ベベットはもう一つのサッカーの能力を教えてくれた。


世界屈指のコンビを披露

 ワールドカップの本体会であろうと予選であろうと、あるいはアジア大会であろうと、大会の一次リーグ初戦に勝てば、その後がどれほど戦いやすくなるか──その意味では、6月20日、サンフランシスコ郊外、パオ・アルトのスタンフォード・スタジアムでの一次リーグB組、ブラジル─ロシア戦でのブラジルの完勝(2-0)は、優勝を目指すチームにとって理想的なスタートとなった。

 旧ソ連の伝統を引き継ぐサッカー大国を相手に、ブラジルは27分の左CKからロマーリオが先制ゴールを奪う。これはゴール中央へ入ってくるM・サントスを越え、ファーポストのロマーリオの前へ落とす、ベベットの見事なキックが伏線としてあった。

 このCKまでブラジルは休みなく攻撃を続けてロシアを圧迫していたが、攻撃の口火を切る形になったロマーリオへのスルーパスは、ベベットから出されたものだった。彼はまた、ゴール前の危険地帯に疾風のように現れ、惜しいボレーシュートも見せた。

 この第1戦はブラジルにとって大きな自信となっただけでなく、ロマーリオとベベットの優れたシューターの、コンビプレーによる破壊力を世界に印象付けた一戦だった。

 当日の試合を、私はワシントンのホテルのテレビで見ていた。ベベットのクローズアップの画面を眺めながら、91年のキリン・カップにバスコ・ダ・ガマのメンバーとして、ビスマルク(現・ヴェルディ)とともに来日した頃の彼を思いだした。


ジーコの後継者として

 ベベット(赤ん坊)という奇妙なニックネームを持つ、このスリムなプレーヤーが生まれたのは1964年2月16日。日本では8カ月後に東京オリンピックを控えて、代表チームが東南アジアへ遠征に出かけた頃だった(カマモトが日本代表に入っての最初の海外遠征)。

 バイア州サルバドルに育ち、ビトーリアというクラブからリオの名門フラメンゴに移ったのが83年。ここでジーコに出会う。83年ワールドユース・メキシコ大会では代表としてプレーし、優勝している。この大会は韓国がベスト4に入り、また準々決勝で敗退したオランダにはファン・バステンがいたなど話題が多かったが、「ジーコの後継者としてフラメンゴで期待されている」19歳の選手、ベベットには特に注目が集まった。

 フラメンゴでの6年で、彼はストライカーとしての才能を伸ばすと同時に、パスのテクニックに非凡なものを見せるようになっていた。きゃしゃな身体からは想像もできない強烈なシュートを放ち、また鋭く早いその突破力はカミソリのような切れ味があった。

 88年のソウル・オリンピックでは、2歳年下のロマーリオ(7ゴールで得点王になる)とともに攻撃の核となる。2人の合計得点は9得点(チーム総得点は13得点)を数え、銀メダル獲得の原動力となった。

 次の年の南米選手権でもこのコンビは、ベベットが6得点(得点王)、ロマーリオが3得点をマークし(チーム総得点は11得点)、優勝に大きく貢献した。

 この後、彼はバスコ・ダ・ガマに移籍する。ブラジル選手権という新たな勲章は手に入れたが、バスコではケガに悩まされ、90年ワールドカップではイタリアまで行きながら、1試合、それも終わりの7分間に出場しただけ。しかも、91年の南米選手権ではファルカン監督と意見が食い違って代表チームにすら参加しなかった。

 この90-91年はいわば彼の苦境期。キリン・カップでの来日はそうした時期だったためか、彼のプレーについては余り印象に残っていない。短いインタビューのときの語り口が物静かだったことは覚えているが…。

 92年にスペインのラ・コルーニャに移ってから、ベベットは再びかつての勢いを取り戻した。バルセロナやバイエルン・ミュンヘンなど、欧州のビッグクラブからの誘いがありながら、2部から1部へ上がって間もない北スペインの小さな都市(人口25万)のクラブ、ラ・コルーニャに移籍する。彼の加入とともにチームは一変し、あのバルセロナと首位争いをするようになった。

 腰や足の故障から回復した彼は37試合に出場し、29得点を挙げる。その結果、ストイチコフ(バルセロナ/20得点)、ペネフ(バレンシア/20得点)、サモラーノ(レアル・M/25得点)などを押さえてリーグの得点王になった。

 彼とマウロ・シルバによって、チームはすっかり目覚めたように強くなり、93-94シーズンも優勝に絡んだ。苦しい時期を乗り越え、ベベットは自分のチーム内での安定を土台に、ワールドカップ米国大会予選でもゴールを重ね、ロマーリオと並ぶ最も強力なFWとして米国に乗り込んできたのだった。


本大会で見せた数々の輝き

 ブラジルは一次リーグを楽々と通過して、二次ステージ1回戦で米国と対戦した。44分にレオナルドが退場処分となり、苦しい状況となったが、終始攻撃を続ける米国から1ゴールをもぎ取る。それはロマーリオが中央をドリブルで突破しようとしたとき、右オープンスペースにベベットが現れ、パスを受けて左ポストギリギリに決めたものだった。

 準々決勝で戦ったオランダは、この大会での最強の相手だった。前半を0-0で終え、52分にブラジルはリードする。この得点はベベットの速いドリブルの後のセンタリングをロマーリオがダイレクトでシュートした、大会屈指のビューティフル・ゴールだった。

 その経緯は、ブラジルの右サイドの攻撃をオランダが防ぎ、クリアしたのを再びブラジルが奪って、左サイドのブランコがドリブル。だが、このボールをオランダが取り返し、パスをつないで右サイドのライカールトに渡す。ライカールトはドリブルでハーフラインを越え、左サイドにいたファン・フォッセンにパス。だが、これがキックミスとなり、インターセプトしたブラジルのDFアウダイールが、トラップした次のタッチで左前方へロングパスを出した。そこにはベベットがいた。

 彼はアウダイールのキックを見て、相手DFボウタースの外へ開き、その後ろを抜け出ていた。落下点(ペナルティエリア左角の数メートル外)でボールを右足でタッチし、4歩走ってエリア内4メートルの位置から中央へクロスパスを送った。これをロマーリオがショートバウンドに合わせてダイレクトで蹴り込んだ。

 短いパスでの攻めを繰り返していたブラジルがロングパスから得点したことは、このチームの多彩さを見せたといえる。そして、この10分後に2点目が生まれた。

 これも1発のパスから、オランダGKのパントキックをブランコがヘディング。これが大きく飛んでロマーリオの位置へ。このときオフサイドの位置にいた彼を見て、オランダのDFはプレーを止めた。しかしレフェリーの笛はなく、いち早くスタートしたベベットが追走するボータースを振り切り、GKをもかわし左足でゴールへ流し込んだ。

 オフサイドの位置にいたロマーリオがプレーに係わる意志のないジェスチャーをしたことで、レフェリーが笛を吹かなかった。これは明らかにジャッジミスだが、ベベットのスタートの良さ、ゴールへの執念が生んだ得点だった。ビデオのスローで確認すると、ヘディングが高く飛んだときに一番早くスタートしていたのがベベットだったのだ。

 オランダ戦はこの後2-2となり、ブランコのFKが直接入り、ブラジルが3-2で勝利を収めた。この日、コットンボウルで観戦した私はベベットの本領を見ることができた。

 準決勝のスウェーデン戦は終始押し込みながら、80分のロマーリオのヘディングでのゴールまでブラジルは得点できなかった。このゴールもベベットが中盤でボールをキープし、右サイドのジョルジーニョの前進を見てパスを渡す。このジョルジーニョからのクロスにライーが飛び込み、ライーを越えて落下したボールにロマーリオが合わせたものだった。点が取れなくて焦りの出はじめた時間に、このベベットの冷静さは際立っていた。

 決勝はイタリアの堅い守りに苦しんだ。PK戦での勝利、それもR・バッジョの失敗によって優勝を掴むという、一方のイタリアにとっては悲劇的な結果になったが、ブラジルがタイトルホルダーに相応しい力を持っていたことは誰もが認めることだろう。
その原動力はがっしりとしたロマーリオと、スマートで冷静なベベットの2人であったことは疑いない。大型化の進む現代サッカーにあって、尚技術とスピードとインテリジェンスが大きなウェイトを占めることを教えてくれた一人が、このベベットだったのだ。

(サッカーダイジェスト 1994年11/30号より)

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