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24年ぶりの優勝を陰で支えたドゥンガ

 今度の大会でブラジル風にいうボランチ、守備的MFが注目され、語られるようになった。このポジションはどちらかというと地味だ。しかし、先の米国ワールドカップでブラジルが優勝できた一因は、この地味さがあったからだともいえる。ドゥンガはチームに欠かせないボランチとしてブラジルを引っ張り、見事にまとめ上げた。


「のろま」がトロフィーを

 表彰式でトロフィーを手にしたのは、ドゥンガだった。それを見ながら、私はようやく祝福する気になれた。

 1994年7月17日、ロサンゼルス郊外パサディナのローズボウルで行われた米国ワールドカップの決勝は、私にとって不満の多い試合だった。試合時間こそ90分の上に延長の30分、更にPK戦のおまけまで付いて、たっぷり観させてもらったが、ブラジルの多彩な攻めを期待していた私には、いささかあて外れだった。

 暑さや相手のカウンターを警戒したことはあっただろう。とはいえ、試合中何度も、もう少し第2列、第3列が攻め上がればいいのにと思ったものだ。

 そんな「贅沢」な観戦者のフラストレーションも、ブラジル選手が喜び合い、抱き合うのを眺めているうちにほぐれはじめ、金色のトロフィーを差し上げるドゥンガには心の中で「良かった」と呟くのだった。

 ドゥンガというニックネームは「のろま」を意味する。ワールドカップのトロフィーを受けた歴代のキャプテンを見ると…。

 90年はドイツのマテウスだった。体は大きくはないが精悍そのものの風貌を持っていた。86年は身体が小さくても、世界を驚かせたマラドーナ、82年は大ベテラン、イタリアのGKゾフ、78年は闘将パサレラ、74年は「皇帝」ベッケンバウアーだった。そうした一人一人の姿を思い浮かべると、ドゥンガは確かに「ドゥンガ」のイメージだった。

 偉丈夫でもなければ、美男子でもなく、得点王でもなければ、ジェネラル(将軍)でもなかった。その彼が仲間を代表するところに、今度のチームカラーがあったのかもしれない。


90年イタリアでの苦しい経験

 カルロス・カエタノ・プレドーン・フェリという本名を持つドゥンガは、1963年10月31日生まれだからすでに31歳。私が初めて観たのは90年のイタリア・ワールドカップだった。彼はセリエAのフィオレンティーナに所属していて、開催国のファンにはよく知られていた。

 生まれ故郷のリオグランデ・スル州はブラジルの一番南で温帯地域。彼はここにあるインテルナシオナルに1980年から入り、5年間プレーした後、サンパウロ州へ。コリンチャンス、サントスで各1年プレーした後、リオのバスコ・ダ・ガマに移る。178センチ、74キロと大きくはないが、タフなハードタックラーとして注目され、1987年には代表にも選ばれるようになった。

 87-88シーズンにセリエAのピサがドゥンガを迎えたのは、守備的な強さだけでなく、ブラジル人らしいボールテクニックや、試合の駆け引きに優れている点を評価したに違いない。ピサでの仕事は1年で終わり、フィオレンティーナへ。このクラブで2シーズンを過ごした後に行われたイタリア・ワールドカップで、ブラジル代表はとても悔しい思いを味わった。

 ブラジルはジーコやソクラテス、トニーニョ・セレーゾらの芸達者は去っていたが、カレッカ、ミューレルのトップをはじめ、十分優勝を狙えるメンバーを揃えたチームだった。一次リーグC組を首位で勝ち上がったブラジルだが、二次ステージ1回戦で故障者続出のアルゼンチンに0-1で敗れてしまう。ドゥンガがシュートをバーにあてたのをはじめ、多くの好シュートが不思議にもゴールを外れた。そして、ただ一度のアルゼンチンのカウンターに屈してしまった。それも一番警戒していたマラドーナのドリブルからだった。

 マラドーナが開幕のカメルーン戦で足を痛め、辛うじて一次リーグを生き延びたアルゼンチンだっただけに、この対戦は私をはじめほとんどの人間がブラジル勝利を予想していた。

 試合前半の圧倒的なブラジルの攻めに、両者の実力の違いが現れていた。マラドーナはブラジルの選手にボールを奪われる度に倒れていた。ブランコなどは何度も倒れたマラドーナに手を差し出していたくらいだ。

 そのマラドーナが後半の途中から突然、ぶつかられても倒れなくなった。3人を相手にドリブルし、際どい隙間を通してカニーヒアにボールを渡したのが、ブラジルの命取りになったのだった。チーム力からすれば、誠に不本意な結果だった。次には、取りこぼしはしないとドゥンガ達は心に決めたはずだ。

 フィオレンティーナの4年間の後、1992年にはペスカラに移籍、続いて93-94シーズンにはVfBシュツットガルトに入り、セリエAとは違ったブンデスリーガの激しさを経験した。しかしドゥンガは急きょワールドカップ予選に駆け付けなければならなかった。ラパスでのアウェー戦でなんとブラジルがボリビアに敗れたからだ。

 彼がチームに合流したことで、ブラジルは立ち直り、南米予選をクリアした。


華やかさはない。しかし…

 米国ワールドカップでブラジルはロシアを破り、カメルーンに完勝。スウェーデンには引き分けたが難なく二次ステージにコマを進めた。そんな快進撃の中で、何よりも周囲を驚かせたのは守りの堅さだった。

 リカルド・ゴメス、リカルド・ロッシャの2人のセンターバックが故障したが、その代わりをアウダイールとマルシオ・サントスが見事に務めた。最もこの2人の安定は、彼らの前で相手の攻撃の出鼻を押さえたドゥンガとマウロ・シルバの、いわゆるダブル・ボランチの功績ともいえた。

 彼らとともに、もう2人のMF、ジーニョとマジーニョはブラジルの誇る2人のFW、ロマーリオとベベットを支援しながら、やはり中盤での積極的な守りを仕掛けた。サイドバックというより、ウイング的な役割には90年以来のジョルジーニョが右サイドにいて、左には若いレオナルドがいた。

 7月9日の準々決勝オランダ戦はブラジルにとって最大の山場だった。この試合、ドゥンガの出来は格別だった。

 私にとっての興味の一つは、相手の中盤のライカールトへの対処だった。フリット、ファン・バステンという大物FWを欠いたオランダにとっては、ベルカンプとこのライカールトが攻撃の核だったからである。

 試合が始まってしばらくすると、ドゥンガとライカールトの対決が再三見られるようになった。長身のライカールトの頭上にボールが飛ぶときは、長身のアウダイールがマルシオ・サントスが競りに行くが、グラウンダーのボールにはドゥンガが絡んだ。

 ドゥンガは執拗なプレッシャーに、ライカールトはリーチを生かそうと、大きなトラッピングで半円を描くようにボールをコントロールする。しかし、今度はそこにジーニョやマジーニョが襲いかかった。大柄なライカールトに、次々にブラジルのMF陣が挑戦し、がんじがらめにする様は、獅子を追い詰める猟犬にも似ていた。

 かつて、同僚のファン・バステンが「ライカールトの才能は本当に羨ましい」と語ったことがある。全盛期のライカールトはまさに「ミッドフィールドの王」といえたが、体力的にも峠を越えた今、ドゥンガを軸とするブラジルの粘っこい守りに、次第に焦りが増すのが、スタンドから見ていても読み取れた。

 後半に生まれたブラジルの先制ゴールは、ブラジルの攻撃を防いだオランダがカウンターに出て、ライカールトが左を走る味方へパスを出したのを、アウダイールがカットしたところから始まった。それはインターセプトというのではなく、ライカールトのミスキックで、ボールはアウダイールのところへ飛んでいってしまったのだった。

 かつてのライカールトからは考えられないミスだったが、前半からのドゥンガらの厳しいプレッシャーで、どこかが狂いはじめていたに違いない。64分にとうとうライカールトがベンチに引っ込んだのは、ブラジルにとっての一つの成功だった。

 このオランダ戦の勝利でブラジルは大きな関門を突破した。準決勝の相手スウェーデンは組織された良いチームだったが、中盤の核であるシュバルツを欠いてチーム力が低下していた。決勝の相手イタリアもまた、エースのR・バッジョが故障を抱え、ブラジルを打ち破る力はなかった。

 だが、それでもドゥンガは気を抜くことはなかった。フィールドを駆けめぐり、ボールを奪い、つなぎ、仲間を攻めに送り込んだ。

 ブラジル人は華やかな攻撃サッカーを好むといわれている。しかし、守備的マインドを備えたプレーヤーも数多く現れている。セレソンはいつもいいDFが揃っていた。その中でもドゥンガが素晴らしいのは、守りのセンスやハードなタックル、粘っこい絡みとともに、短いパス、ダイレクトでのボールの受け渡し、第3列が取ったボールをすぐさま受け取るポジショニングや、それを受ける技術、更には受けた後の処理に、抜群の能力を発揮していたからだ。

 「ピアノを弾く者はブラジルにはよく生まれてくる。だが、大事なのはそのピアノを運んでくる人だ」。かつてブラジルの代表を率いたサルダーニャ監督はこういって、地味な働きをする選手の感情を説いたことがある。

 ドゥンガというあだ名の通り、華やかさに乏しい彼が大会の後半、チームの首相を務めたことが、今回のブラジルを象徴しているように思えた。

(サッカーダイジェスト 1994年12/7号より)

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